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心とは


 心のありのままの姿は一念三千の法理によりあきらかにできることは既に述べた。心があればそこには確実に一念三千の姿がある、ということである。
 本性では、「心」とは何か、すなわち、「心」の定義を提示したいと思う。

 その前にまず「心とはなにか」という大テーマに関連して、現在の人類の知的文化水準について概略を述べておきたい。

 人間が心を持っていることは既成事実であるとして、「心」とは何か?という哲学上、科学上の研究課題(テーゼ)が生じるている。
 このことはすなわち、極めて逆説的ではあるが、人間が「心」を持っていることは明らかな事実(自明の理)であることとして、ここから「心とはなにか?」、「人間以外の生物も心をもっているのか?」、「人工知能も心を持つことができるのか?」、「心は脳に存在するのか?」、「心と知性の関係」、「心と意識の関係』などなど、についてのあらゆる疑問と研究課題が生ずることになる。

 一念三千の法理は人類の至極の英知として、「心」の全体像を初めて明らかにしているが、この法理は仏法の極理として完成した経緯があることより、残念なことに未だに人類が共有する知識とはなっていない。
 世界的に見ると仏教は依然マイナーな宗教であり、人類の7割以上を占める宗教となっているキリスト教やイスラム教などにおいては絶対的な存在としての神を価値判断の基軸に置いており、神と人間という二律背反の存在が教義全般の基盤をなしているためである。即ち、原理的に、キリスト教などの二元論では色心不二、依正不二の当体である「心」を理解することができない宿命を背負っている。
 また、仏教においても最高の経典である法華経にまで到達していない爾前経(法華経以前の経)を依経(教義の裏付けとなる経典)としている仏教が依然多いことも障害となっている。
 
 現在に至るまで人類は、唯一の例外である一念三千の法理を除くと、哲学的にも科学的にも未だに「心」を解き明かすことに成功していない。
 科学的に脳の働きを解明する多大な努力が続けられている。また、スーパーコンピューター上で脳をシミュレーションする壮大なプロジェクトも始まっている。
 他方、哲学の分野では、特に、これはギリシャ哲学とキリスト教に大きな影響を受けている西洋哲学の分野では、「心」の解明は明らかに行き詰まりを呈している。
 一番身近な存在である「心」については未だ漠たることしかわかっていないのが実情である。

 ここで私はひとつ提案をしたい。
 どのような手段・方法論であろうと、もし「心とは何か」ということを解明する努力をしているのであれば、まず、一念三千の法理を学ぶことから始めてはどうか、と提案したい。なぜなら、一念三千を知った上であれば、現在の解明努力が一念三千のどの部分を解明しようとしているかが明確になると思うからである。全体像のイメージをつかんでいれば、現在の研究がそのどこに位置付けられるかがわかり研究の方向性が得られることになる、と思う次第。

 ここで、「心」の定義を提示したい。
 心があれば必ず一念三千を備えている。このことは逆に言えば、
 「
一念三千を備えている生命体の十界の場を「心」という
 と言えることになるのではないか。
 なぜかならば、「心があれば必ず十界があり、十界が備われば必ず十界互具となり、十界互具が存在すれば必ず十如是が働いており三世間が伴っている。これらの全てが相互に関係しつつ融合一体となった姿が心の実相であり、この事実を一念三千と名付けている。[KOzのエッセイ#047]」
 更に付則すれば、哺乳類などの脊椎動物も概ね「心」を持っていると言えよう。
 なぜかならば、「不可思議なことではあるが、たとえわずかでも心があれば、その心には一念三千の実相が備わっている。[KOzのエッセイ#047]」
 牛や象、更には鳥やトカゲであっても「心」をもっているとの結論である。牛が十界を備えているかどうか表面的には疑問が生じるかもしれないが、少なくとも地獄界から畜生界までの四界は明らかであり人界や天界までの六界も観察できよう。七界以上については活性化・顕現化はしていないかもしれないが原理的に内伏・冥伏していると推察すれば、十界を備えていると言える。
 ただし、脳の存在がそのまま心の存在になるかどうかについては、現時点で断言することはできない。おそらくある程度の脳の発達が心を生じる前提、すなわち十界を備える前提となっているのではないかと推察するにとどめたい。脳イコール心となるのであれば、昆虫や更に下等生物も心を持っていることになるが、これについては将来の課題として判断を残しておきたい。

 最後に触れておかねばならないことがある。
 それは、人工知能は将来心を持つことができるか、という疑問についてである。
 結論から言えば、「一念三千を備えている生命体の十界の場を心という」という定義に合致するかどうか、で判断されることと言っておきたい。
 すなわち、人工知能が将来「生命体」になれるかどうか、によって決まってくると思う。
 ただ、人工知能に関しては、「擬似心(ぎじしん)」という定義が将来なされるのではないかと予想している。擬似心とはなにか、といえば、たとえ人工知能が生命体ではないとしても、心を持っている者(人間)が人工知能とのコミュニケーションを通して「心を持っている」と感じることができれば、一念三千を使った定義による「心を持っている」生命体と区別がつかない、という場合、その人工知能は心(擬似心)を持っていると言わざるをえない、ということとなるのであろう。
 この拡張基準から言えば、人工知能は将来、心を持つ、のは間違いない。

 尚、蛇足ながら将来の課題としてひとつの疑問を残しておきたい。
 仏法では国土世間に含まれる非情の範疇となる植物についてである。植物も心を持っているのではないか?という疑念を私は持っている。
 植物についても、本抄で私が提示した「心の定義」の基準で、「心」を備えているかどうかを将来明らかにしてもらえれば無上の喜びである。

[参考文献など]
 KOzのエッセイ#019 「不二(ふに)とは」
 KOzのエッセイ#043 「心の実相 (1) 十界」
 KOzのエッセイ#044 「心の実相 (2) 十界互具」
 KOzのエッセイ#045 「心の実相 (3) 十如是」
 KOzのエッセイ#046 「心の実相 (4) 三世間」
 KOzのエッセイ#047 「心の実相 (5) 一念三千」
 KOzのエッセイ#054 「西洋哲学の変遷と限界」
「植物は<知性>をもっている 20の感覚で思考する生命システム」Stefano Mancuso/Alessandra VIola共著(NHK出版)2015年
「意識はいつうまれるのか」 Marcello Massimini/Giuluio Tononi著(亜紀書房)2015年
「アリの集合知」Deborah M. Gordon著(日経サイエンス 2016.05号)