076_傘
石川五右衛門


 豊臣秀吉の治世に、京都三条河原で釜煎り(一説には釜茹で)にて処刑された石川五右衛門(いしかわ ごえもん)が詠んだ辞世の句は、
「石川や 浜の真砂(まさご)は尽(つ)くるとも 世に盗人(ぬすびと)の種は尽くまじ」
と、伝えられている。
 たとえ賀茂川に無尽蔵にある砂が尽きるとしても、世の中の盗賊・悪人がいなくなることはない、との意味であるが、まさに遠慮呵責のない主張でありその否定できない真理ゆえに現在まで語り伝えられているのであろう。

 五右衛門が言い切った「いつの世でも悪人がいなくなることはない」というのは、なぜ真理といえるのか?
 五右衛門の例を挙げるまでもなく、悪人とは窃盗、脅迫、詐欺、傷害・殺人、秩序破壊など社会・国の規範から外れた行為をする人間をいうが、なぜ「悪い」行為をするのかという事情が背景にある。
 五右衛門は、推察するにおそらく、世の中にはさまざまな矛盾があり「悪い」行為をしなければ生きていけない風土が盗賊や悪人を自然発生的にかつ必然的に生み出す、と思っていたのではないかと思う。更に、そのような社会の矛盾や環境は時代が変わり人が変わっても人間のエゴや本性に起因するものであるがゆえに変わりようがない、従って悪人は人間社会が続く限り無くならない、との主張であろう。
 五右衛門がどこまで深く考えていたかは今となってはわからないが、単に自分の行為を正当化するためだけに言ったのではないがゆえに、現在まで時代は変わっても人の心に訴える力を持っているのではないかと思う次第。

 五右衛門の時代から400年以上経ち、現代に普遍化しつつある新知識を用いて「なぜ悪人はなくならないか」ということをもう少し整理してその理由を考えてみたい。これがなぜ真理といえるのかを明らかにできればと思う。

 まず、従来の思考法でその説明を試みる人は、
 「悪人は現実の社会環境に起因して生じる」
 とする場合が多いのではないか。
 生涯にわたり十分に満足できる生活が保障され、思想行動の自由・平等な機会・生命の尊厳・生きがいが最高度に維持され、常に心身ともに健常な状態が保たれている、このような正に現日本国憲法が標榜しているような理想社会がもし現実社会で実現されているのであれば悪人はいなくなる、と考えるのがこの旧思考法の帰着点となる。
 環境・社会が人間性を既定する、という価値観・世界観に基づく思考である。
 逆に、このような理想的な社会は実現不可能であり、ましてや永続などありえない、と考えれば「悪人は永久になくならない」と主張できる根拠となる。
 この主張は極限すると、環境によって人の善悪が決まってしまう、ということと同義となる。

 新しい思考法ではどうなるか。
 確かに環境は人間の心の状態や行動に大きな影響を与えるが、この外的要因だけで全てが決定されるというのは実態に即しておらず、人間の内的要因が人間の行動様式と更には環境にも大きな影響を与えているという事実をも正視する考え方である。
 人間自身とその環境が相互に一体不可分の状態にある(依正不二)との認識、更に、人間自身もその肉体と精神が相互に一体不可分の状態にある(色心不二)という認識を基礎において思考する方法である。また、人間の心の状態には様々な状態がありその状態変化にも多様な可能性を秘めている(十界と十界互具)ことを常に認識の基礎に置いておくことが新思考法の要諦となる。

 これらの視点から「なぜ悪人はなくならないのか」ということを考えてみる。

 まず、悪人の定義に元となる悪とは何なのか、ということが出発点となる。
 心の状態を十の状態に区分して分析する十界について知っておかなければならないことは、「全て」の人間は十界「全て」を細大漏らさずその心の中に内包している、ということである。十界のどの状態にあるか、また、どの状態がその人の心の基盤となっているかは、人によって異なり多種多様ではあるが、いずれにせよ十界全てを備えており可能性として十界の全てが現れることができるのが人間である、ということである。

 十界の最低状態ともいえる地獄界の心の状態にある人は、全てが自分の苦しみとなっておりその苦しみから自らの力で脱することができないことにも苦しんでいる。この状態にある人は、自分の周りの人や社会に助けを求めるがそれが叶わないと絶望感に陥りその全てを否定することになる。環境や社会がどんなにすばらしいとしても、このような状態にある人にとってはそれは全く関係ないのがこの心の状態である。
 餓鬼界の状態にある人は、自分の本然的な欲望に支配されており、その欲望を満たすことが一切の価値観に優先している状態であり、食欲、生存欲、性欲、金銭欲、支配欲など、たとえそれが他人や社会や環境を害することになってもこれらの欲望をうまくコントロールできないことになる。社会がうまく維持されている場合でも、それが逆に自分本位の欲望を強めてしまうこともありうる。
 畜生界の状態にある人は、本能的な弱肉強食の衝動にかられ理性的な生活から逸脱して目先のことのみにとらわれた行動をとってしまう。社会の秩序に反することであっても、それすらも自分の保身のために正当化してしまう心の状態にある。
 修羅界の状態にある人は、常に何かに対して怒っている。特に他人より自分が優れていようとする気持ちが強く働き、他人を見下すことに喜びを感ずる。このためたとえ相手が善人であろうと、社会が自分を守ってくれる働きが機能していることを知っていても、絶えず侮蔑し不満を感ずることになる。
 以上、十界の内、特に悪に深く関わりやすい四状態(四悪趣)について述べたが、他の状態、例えば人界、天界、声聞界、縁覚界などの心の上位状態についても悪に関わる場合があり高邁な悪、社会全体に対する悪、など質は異なる悪が働くことがありうる。

 四悪趣についてもそれより上位の状態についても十界全てについていえることであるが、悪とその反対の善も心の働き方とその結果の違いであり、それぞれの心の状態そのものが悪であるということを言っているのではないことが重要である。
 全ての人は十界を持っており、全ての人が悪人になる可能性ももっている、ということに注視しなければならない。
 環境や社会がどのような状態にあろうとも、人間は例外なく十界を持っているという事実は変わらない。また、十界のどの状態が現れてくるは、環境(外界)が縁(環境原因)としてその心の状態が生ずる、と同時にその人の心には過去の全ての原因が累積して現在の状態が生じているという内的要因とが相呼応して決まってくる。

 十界、そしてその変化を見る十界互具、また、依正不二、色心不二、という知恵を借りて見ていくと、人がいる限り、また人によって構成される社会がある限り、また人と社会を取り巻く環境が存在する限り、人が持つ十界より発して心の側面として悪人としての働きは必ず伴うこととなり、その意味で五右衛門が残した「悪人の種は無くならない」という言葉は真理を含んでいる、ことになる。

 悪も人間性の発露ではある。従って、悪人を減らすためには、人それぞれの心の状態をどうしたら高められるのか、また、境涯をどのようにしたら高められるのか、が最大の課題であろう。人類史の大テーマでもある。

[参考文献など]
 KOzのエッセイ#019 「不二とは」
 KOzのエッセイ#043 「心の実相 (1) 十界」
 KOzのエッセイ#044 「心の実相 (2) 十界互具」
 KOzのエッセイ#045 「心の実相 (3) 十如是」
 KOzのエッセイ#046 「心の実相 (4) 三世間」
 KOzのエッセイ#047 「心の実相 (5) 一念三千」