092無量義経
大乗非仏説を排す


 釈尊がその
悟りを説法し、それが文字として記録されたものが仏経典と呼ばれている。
 その教えの内容から仏教典は小乗教と大乗教に大別されている。

 釈尊入滅から100年ほどするとインドでは、釈尊の本意は大乗教に説かれており小乗教は逸脱しているというと非難する者が現れた。更に数百年の時代が経過すると今度は、大乗教は仏説であるのかどうかをめぐり、小乗教と大乗教の対立が激しくなっていた。小乗教を支持する人たちは、大乗教は釈尊の説いたものではなく滅後に別に編集されたものであるとの主張を掲げていた。

 インドから中国に渡った仏教典は、6世紀にほとんどの漢訳経典を網羅する天台智顗大師の五時八教に代表される仏教典の体系化がなされたこともあり、大乗教を否定する大乗非仏説論は影を潜めた。
 しかし日本では、江戸時代に入ると国学者や神道学者らにより仏教攻撃に大乗非仏説論が使われ始めた。明治時代以降、今度は仏教学者がその大乗教典は仏説であるとの反論をし始めた。

 現在においては、日本の仏教学会には「大乗教は釈尊の滅後に何人かの比丘(びく)によって後から創作されたもの」ということを定説として既成事実化している状況にある。
 仏教聖典は三蔵、すなわち経(釈尊の金口直説)、律(戒律・規則)、論(教法の研究論)、に大別されるが、大乗教非仏説論者は「釈尊滅後の後世の仏教学僧が法華経や涅槃経を始めとする全ての大乗経典を「経」として創作した、と主張し現代仏教学の定説であるとしている。

 私はこの仏教学会の常識とされている大乗非仏説論には同意しない。

 法華経(大乗教の最高峰)の開経である無量義経は次の言葉で始まっている。
「如是我聞。一時。御住。王舎城。耆闍崛山中。与大比丘衆萬二千人倶。・・・」これを下し読みにすると、「是の如く我聞きき。一時、佛、王舎城耆闍崛山(おうしゃじょうぎしゃくっせん)の中に住したもう。大比丘衆萬二千人と倶なりき。・・・」
 「仏が王舎城の山中に僧二千人らと共に居られた時、私は仏が言われたことをこのように拝聴した。」と全頭部で断って無量義経が説かれている。
 正直と精確を本分として仏教典が成り立っている、ことを私は理解している。その上で、仏の説法を直接聞いていない者が「自分は直接このように聞いた」と嘘を語ることは、自らの存在を否定することになり、それは仏教の本義にもとる。何人もの仏教を学ぶ者が釈尊をおとしめる自虐行為をするとは到底考えられない。また、作者自身の「論」を「経」と偽るのは三蔵(経律論を体得した比丘)の資格の喪失でもある。

 更に、無量義経(説法品第二)には、「四十余年。未顕真実。」(四十余年には未だ真実を顕さず)の文が含まれている。これは釈尊が「成道してから四十余年の間未だ真実を明かしていない」との意味であるが、もし無量義経が創作であるならば、その創作者は無量義経のみならずその「真実」を明かした法華経をも創作しなければならず、尚かつほぼ五十年間の釈尊の説法・経典を全て完全に理解していなければ決して言えない言葉である。
 また無量義経には「無量義者。従一法生。」(無量義とは一法より生ず)との甚深の言葉も含まれているが、もし無量義経が創作されたものであるならば、その創作者は学生(がくしょう)としての比丘ではなく釈尊と同等以上の悟りを得た仏と言わざるを得ない。

 以上のごとく大乗経典のひとつである無量義経を引用して大乗経は仏説であることを述べてきたが、私にはこれは余りにも明らかなことと考えており、大乗教が後の時代に創作されたものであるとの主張には同意できない。釈尊が「説いた」大乗教が滅後に口伝・口承されある時期にそれが文字化・経典化されたのが大乗教であると考えるのが、私の考えである。

 尚、最後に付け加えると、無量義経に引き続いて説かれた法華経(序品第一)の全頭部も「如是我聞」で始まっていることを確認しておきたい。