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日本の家の源流


 日本の家に込められた伝統的特徴とは何であろうか?

 人が住む家にはその土地土地に馴染んだいろいろな工夫や生活様式が染み込んでいる。日本の家も例外ではなく、日本人が日本の気候風土に馴染ませて長い時間をかけて育んできた伝統が日本家屋に反映されている。
 日本人が住み生活する場が日本の家であり、時代とともにまた生活文化の変化に伴って必然的に進化してきたのが日本の家といえる。日本人の特質が他の国の人びとと区別できるように、また日本文化が特徴をもった文化として他とは異なった独立したものとして語ることができるように、日本の家、言いかえると日本人が住む住居、も一種独特な伝統を保持しているのではないか。

 日本の家の伝統的特徴とは何であろうか。敢えて伝統的特徴としているのは、少なくとも二千年以上にわたって育まれてきた普遍的な特質、という意味を込めている。
 日本は地理的には南北3000kmにわたり気候も北と南ではかなり異なっており、一概に日本と言っても地域差は当然あるが、最大公約数的に概観した日本の家(住居)ということで見た場合に、次のような伝統的特徴が見受けられると思う。

 ① 床に直接座り寝ることのできる居間があること
  日本の家を構造上の視点からみると、地面より高い床があり、この高床によって外から区分されている居住空間を備えている。この床の上で裸足で暮らすことができる。

 ② 玄関があること
  これは下足を脱いで高床の居住空間に入る場所であり、外と内との切替えをする場所である。前述したように高床の家屋構造から必然的に生ずるスペースが玄関と言える。玄関は戸などで外界と仕切られており、地面と床との高低差によって居住域と区分されている。

 ③ 狭い室内空間を最大限に利用している
  部屋と部屋との仕切りのために無駄な空間を使うことを嫌い、石などを使った厚い壁を作らない。限られた居住空間の中でできる限り室内空間を広く利用する工夫がなされている。同じ部屋が居間になったり寝室になったりすることにより最小限の居住空間で生活できるのが日本の家の特徴ともなっている。

 ④ 建物の規格化
  日本の伝統的な家は木の文化ともいわれ建材は木材が主体となっている。その木材は規格化されているものが多い。これは家そのものが規格化されていることにより生じている。
  部屋の広さを規格化された畳の枚数で示すことができるし、ふすまや障子など家の随所に数多くの規格寸法が用いられている。
  また、木材を壁の中に塗り込めることなく、木の模様を表に出しその自然の美しさを楽しむ嗜好性がある。このことも部屋の寸法を規格化できる要因にもなっている。

 これはあえて上げる必要はないかもしれないが、
 ⑤ 居間は南向きが好まれる
  日本人は日当たりの良い南向きの居住空間を好む。太陽からの自然光を好み、日の出から日の入りまでできるだけ長い時間自然光で室内が明るくなっている状態を四季折々の自然の恵みであると感じている。

 もし現在の日本の家が以上述べたような特徴をもっているとすると、そのような特徴はどこにその源流があるのか、日本の古代の家を概観しながら考えてみたい。

 まず、日本の古代においてどのような住居があったのかを考える時、床面の高さによって大きく三つに分類できる。
 (1) ひとつは竪穴住居である。家の中の床面が地面より低くなっている低床の穴屋住居である。
 (2) 次に高床住居である。これは家の中に板を敷いた床を作りその床面が地面より高くなっている高屋住居である。
 (3) 最後に平地住居である。家の中の床面が外の地面の延長であり同じ高さになっている平屋住居である。

 (1) 土間の源流、竪穴住居
 日本人の源流となったホモ・サピエンスの分派が南北西から日本列島に移ってきた4万年から3万5000年ほど前から縄文土器を使い始めた1万5000年ほど前までが日本における旧石器時代と呼ばれる時期であるが、この時代は食料採取のために主に動物を追って狩をしながら移動する生活であり、長期間同じ場所に留まることは難しかったと思われる。このため自然の洞窟や崖の洞穴、打製石斧で伐採した小径の木材を使って組んだ簡易住居などが居住場所であり、旧石器時代の大半を通じて長期定住できる本格的な家とよべる居住家屋の段階にはなかったと言われている。
 旧石器時代の後半、2万8000年前から1万5000年前にかけては氷河期であり平均気温は今よりも7~8度程低かったと思われ、広葉樹は少なく針葉樹が広がっていた時代であった。とはいえ、日本には四季を通して豊かな動植物・魚貝を採取できる自然環境に恵まれていた場所もあったと思われ、また優れた打製石器や剝片石器などの道具も製作されていたことも思い巡らすと、一年以上にわたって同じ場所に数家族がいっしょに住んでいた場所もあった可能性も否定できない。事実、旧石器時代の遺跡として柱をもった住居や石で囲んだ炉も見つかっている。また住居跡の周辺に多数の落とし穴を掘った遺跡も多く発見されており、半定住もしくは定住が始まった証拠とも思われる。
 旧石器時代の末期になると平地に竪穴住居が作られ始めたのは間違いないと思われる。

 定住を前提とした本格的な居住家屋が作られ始めたのは、やはり縄文時代以降と思われる。土器の製作が始まったことにより食料の備蓄も可能となり、それまで食用に適さなかったドングリ類やトチの実をゆでることができるようになり栄養価の高い食料の確保も可能となったことにより定住化の条件が整った時代である。必需品となった縄文土器は重くかさばるため移動には適しておらず、実用性の高い摩製石器や様々な日用品の種類も増え、このことも定住化を促すことになった。
 縄文時代の住居は、竪穴住居が主体であった。
 竪穴住居は水はけのよい高台に建てられた。地面に石斧(打製石斧もしくは磨製石斧)を使って地面に数十センチメートルから1メートル数十センチの深さの穴を掘り、場合によっては穴の周囲の壁の土が崩れないように丸木を打ち込んで壁の補強にすることもあった。穴の周辺には掘り出した土を盛り土にして地面より高くして環状にして囲った。磨製石斧で切り出した丸太を何本も垂木として穴の外側から穴の中心方向に上角30度ほどに傾けて伸ばし、中央部でツタや木の皮で作った縄で括り円錐形の屋根を作った。丸太と丸太の間の隙間は小枝を置いてナワやツタで補強し、更に木の皮やカヤなどの長繊維の植物を乾燥させたもので屋根を覆った。地域によっては屋根の上に土をかけ、外から見ると土の小山ができたように見える作り方もあった。この竪穴住居は屋根の円錐構造から円形の竪穴住居となる。
 竪穴住居も次第に進化していき、屋根をかける前にそれを支える柱を何本か垂直に立てそこに横木(梁)を渡し、その上で穴の周辺から何本もの垂木を掛ける方法に進化していった。この支柱を立てる方法が主流になるに従って、竪穴住居は円形から方形に変化し大型化も進んだ。
 竪穴住居は旧石器時代末期から、縄文時代、弥生時代、古墳時代を経て、一部では平安時代にまで使われた建築様式である。それだけ居住性も良く、地中の恒温性を活かした室内は夏は涼しく冬は暖かく、強度が必要とされる四方隅の主柱を必要とせずとも竪穴自体で居住空間を確保できる合理的な建築様式であった。日本の宿命ともいえる台風や地震に対しても耐えることができた。ただ概して火災には弱かったかもしれない。
 ムシロやゴザを敷いたり、中には平石を敷き詰めたものもあったが、竪穴住居は基本的には床は土間であった。家の中に土間がある。ここで生活がなされていた。風雨から逃れる休息の場であり、火を使っての食事の場であり、家族がそろう団欒の場であり、物資の貯蔵や日用品を作る作業場でもあった。縄文人以降日本人は1万年以上にわたって土間に座って生活をしてきた。限られた居住空間の中で、様々なことを行うことができる土間は、空間を最大限に使うことができた。必然的に、部屋を仕切る固定式の壁は作られず、数倍の空間を必要とする足のついた椅子やテーブルも発達することはなかった。
 壁には棚が作られ、道具や収蔵品が置かれていた。家の一角には土偶が置かれ祈りの場ともなっていた。祈りは主に女性の役割になっていたかもしれない。この時代は男が家族の長となって生きていた時代であり、家長には入口から離れた家の奥の一角に専用の休息・睡眠場所が確保されていたはずである。
 屋内炉は縄文初期の竪穴住居では屋内面積の制約から壁側に作られることが多かったが屋根に火が燃え移る可能性が高く、時代を経るに従って天窓までの高さが最大になる住居の中央部に位置するようになっていった。かまどが作られるようになったのは古墳時代以降といわれている。屋内にトイレが作られることはなかったようで、廁(便所)は屋外にあった。
 いずれにせよ、この竪穴住居が1万年以上にわたって日本列島各地で広く使われたことは、竪穴住居の基本デザインが日本の気候風土と日本人の生活に完全に適合したものであった証左と言えよう。
 竪穴住居の特徴である「土間」、これは竪穴住居が使われなくなっても、日本の家には必ずその場所が確保され伝統となって現在につながっている、と私は考えている。
 確かに、近世に至るまで武家屋敷にも農家にも、商家にも土間があった。では、現代の住居にも土間があるのか?「玄関」こそまさに土間のなごりではないのか、と私は思う。
 次に述べる高床住居との接合点として土間の機能を持つ玄関が日本の家の伝統的な特徴として残っていると思える。

 (2) 清潔な家、高床住居
 縄文時代に入ると磨製石斧が開発され実用化された。この磨製石斧の発明により、それまで打製石斧では困難であった径の太い大木を伐採することが以前より容易になり、太い木材に貫穴を空けることも可能になってきた。
 この革新技術は竪穴住居の大型化にも大きく貢献したが、一方では大型の高床建物の建築も可能にした。縄文時代においては高床建物は一部の発達した場所にしか遺跡として見られないが、弥生時代に入ると大陸から渡来人と共にもたらされた青銅器技術と米作農法によって、低地での生活にも適した高床建物が多く建てられるようになった。
 高床建物はムラの共同施設やムラ長などの一部の有力者の住居として建てられた。ムラ共有の食料の収蔵庫や銅鐸を設置する建屋、見晴台、宗教施設などは竪穴式の建物では対応できず、しっかりした主柱を何本も規則的に立てた上に地面から数十センチメートルから数メートル高い所に加工した木材を使って床をつくる高床建築によって作るしかなかったと思われる。
 高床建物は床だけではなく屋根も壁も木材を使ってしっかりした骨組みのものが作られた。縄文時代でも柱の径が1メートルを超えるものも建てられている。
 地面から離れた位置に床を作る高床建物は、建設するにあたって多大な人力と木材、更には高度な建築技術が必要とされたために一般の人々が個人用の住居として建てるには不向きであったため、当初からムラなどの生活共同体の共同施設として建てられることになった。弥生時代になるとムラからクニへの権力機構の拡大がなされ、それに伴ってクニの有力者などの住居にも高床建物が用いられるようになっていった。
 高床住居は弥生時代、古墳時代を経て有力者の大型住居として発達した。
 高床の住居は地面の湿気から逃れ常に乾燥した床を維持できる清潔な居住環境をもたらした。このことは、床に上がる時には下足を脱ぎ、足の汚れをおとしてから上がる、という風習をもたらした。日本人の清潔感は高床住居の普及と相まっていることはまちがいない。
 木の床にむしろやござを敷くのはかなり早い時期から始まっていたと思われるが、畳が室内に敷きつめられるのは室町時代に入ってから一般化したようである。平安時代には薄手の畳を使わない時には畳んで部屋隅に置いくような使い方であったようで、ここからタタミと言われるようになったともいわれる。畳の普及によって、家(住居)の規格化が促されたと思われる。
 また高床は居住空間の内と外を区分する生活習慣をももたらしたと思われる。
 しかしながら、日本の高床住居は、その自然環境の恵みによって木材が主な建築材として使われており、木材とは機能が全く異なる石材が主体となることはなかった。内と外の区分となる家の外壁を木材でつくるか石材でつくるか、の違いは異なった文化を作るほどの差を生み出す。石材で壁を作ると壁は厚くなり、音も熱も光も更には外部からの衝撃からも完全に遮断してしまう。一方、木材はこれら全てを不完全に防ぐことになる。これはとりもなおさず、木材の壁は内と外との区分を曖昧な状態で区別することになる。
 このことは内の生活と外の自然環境との完全分離ではなく、常にある程度の共存意識を残す状況を木の高床住居はもっている、ことを意味している。
 一昔前の家にあった濡れ縁や縁側、また障子や襖、薄板を使った雨戸、竹を骨材に藁を練りこんだ土壁など外界との分離・遮断が不十分なものが日本の家には多く使われている。
 当初は一部の特殊な建物にしか見られなかった高床建物であるが、木材の伐採や加工が鉄製の道具の発達によって比較的容易にできるようになるにつれて、高床住居は一般化していった。
 
 (3) 簡易建築としての平地住居
 平地建物は四方四隅に柱を立てその上に屋根を置く建物である。建物が大きくなるにつれ柱の数も増え屋根の構造も複雑になっていく。平地建物は屋内が全て土間であり家の外の地面と屋内の土間が同じ高さであり、外から内にそのまま土足で入ることになる。
 平地建物は木で高床を作らないため、高床建物に比べて使用する木材を大幅に減らせるだけではなく、床に使う板材を使わないため伐採・切断以外に木材の加工ができなくても建てることができる家であり、縄文・弥生時代から簡易建築として広く普及していたと推測される。この平地建物は、一般的には地面に垂直に穴を掘り、そこに柱を建てる方式であり、特に大型の建物でないかぎり遺跡として残ることはまずない。穴を掘り柱を立てる、ということから後にこのような建物を掘っ立て小屋と呼ばれることにもなった。
 例外として、6世紀ごろになると中国から朝鮮半島を経て伝えられた寺院建築は屋根が瓦葺きで重いため、柱を単純に地面に埋める方式では建設後建物が沈下してしまうために、地面・地中に大型の礎石を置きこの上に主柱を置く建築方式となっている。さらに五重の塔のように建築面積に比して建物の重量が大きい建築物の場合は例外なくこの礎石を用いた建築となっている。このような建物の場合は、礎石が残るために遺跡として確認できることになる。
 寺院建築などは例外として、ほとんどの平地建物は一般庶民の住居など簡易建物として使われた建築方式であり、平地建物の屋内に高床が一部作られるようになり、土間と高床が混在し高床面積が次第に増える形で発達していった。
 この視点からは、日本では歴史的に高床住居は平地住居の発展したものである、と言うことができよう。またその進化の過程の中で最後に残った土間が玄関であると言えるのではないか。

 日本における建物特に住居の歴史を、竪穴・高床・平地という床の地面からの高低によって建物を区分して概観してみたが、竪穴住居の土間に対する愛着が平地住居に引き継がれ、更に高床住居へと進化して現在の日本の家につながっていることが理解できよう。

 日本の家は今後とも変化し進化していくはずであるが、1万数千年以上にわたる日本人の生活が根強く染み込んだものが日本の家であり、その伝統は今後とも姿を変えながらも引き継がれていくのではないかと想像している。

[参考文献など]
 KOzのエッセイ#025「日本のふろ」
 KOzのエッセイ#036「日本人の源流」
 KOzのエッセイ#050「銅鐸の謎を解明する」
 KOzのエッセイ#066「縄文の謎(1)土偶」
 KOzのエッセイ#067「縄文の謎(2)交易」
「古代住居・寺社・城郭を探る」平尾良光・松本修自編(国土社)1999年
「古代住居のはなし」石野博信著(吉川弘文館)2006年
「遺跡から調べよう!(1)旧石器・縄文時代 設楽博己著(童心社)2013年
「遺跡から調べよう!(2)弥生時代 設楽博己著(童心社)2013年
「朝鮮原始時代住居趾と日本への影響」申鉉東編著(雄山閣出版)1993年
「住まいの文化誌 日本人」ミサワホーム総合研究所編集・発行 1983年