065_水草に魚影
宗教と哲学の区分


 宗教と哲学とは何を以て区別できるのか?

 宗教にはさまざまな種類と形態があるが、個人単独ではなく複数の人間集団を擁する宗教の場合には必ず祈る対象と目的を持っており、そのためそれを信仰集団内で統一的に徹底するために教義が必要となる。教義は教祖もしくは宗教集団のリーダーが話す内容や行動が原型となり、それが記録され文書として残され、場合によってはそのような記録文書の内容が集大成され普遍化されると、その教義の要典が教典と呼ばれることになる。
 教典にまで進化しない場合でも教義は伝承され、その宗教が存続する限り教義も並存することになる。

 この宗教における教義と学問としての哲学とはどう異なるのか。
 どのような教義であっても哲学的に分析するとかなりの不整合なり論理的飛躍などが発見されることになるかもしれないが、これは本質的な問題ではない。
 なぜなら、教義には何らかの人間観や人生観、更には価値観や宇宙観が含まれており、これは哲学でも同様であり、両者では真理探究のアプローチの方法が異なることによるのであろうから。体系化と普遍化の方法が教義と哲学では異なる、ということに過ぎない。

 それでは、宗教と哲学の本質的な違いは何か? またそれは何によって区別できるのか。
 それは宗教は教義を基にした行動が含まれており、哲学は学問として机上の論理思考に留まっていることが大きく異なっている。もし、哲学にも行動が含まれるのであれば、それはその哲学を教義とした宗教の領域に踏み出していることになる。
 逆に、行動が伴わない宗教は、思想としての教義であり、宗教とは言えない。
 この宗教と哲学を区別する行動の有無とは、具体的には何を意味するのか。
 これは人間の本性に直接に関わることと思われるが、「祈り」であろう。

 宗教は必ず「祈り」が伴い、哲学には「祈り」が伴わない。この「祈り」が伴うか伴わないかが、宗教と哲学との本質的な違いである、と私は考えている。
 例えば、仏教教団の教義(宗義)と学問としての仏教学(哲学)の違いも、この「祈り」が伴うかどうかの違いであり、これが行動を伴う宗教と行動を伴わない哲学の区分と合致している。

 宗教と哲学の区分区別が「祈り」を伴うかどうかであるとすれば、「祈り」こそが宗教の本質である、と言い換えることもできよう。

 更に深化した疑問を呈するのであれば、「祈り」とは何か、ということが人間の本性、すなわち人間性の本質的な実態、に直接関係してくることに違いない。
 もし「祈り」の実相を明らかにすることができるのであれば、人間とは何か、という哲学史上の最大のテーマであり未だ十分に解明されていない謎を解き明かすことにもつながると思える。
 また、祈りの実相を明らかにできるのであれば、祈りの成就のプロセスをも明らかにすることであり、祈りの結果がその宗教の教義に合致しているのかどうかをも明らかにしてしまうことでもあり、それは、恐らく宗教の高低、浅深、勝劣をも浮き出させることにもなるのではなかろうかと予感している。

 「祈り」の解明はこのように極めて大変な内容を取り込むことであり、私の「KOzエッセイ」の到達目標のひとつが、「祈りとは何か」というテーマであり、未だにその目標に向かって思考と客観データを積み重ねている段階であるが、これがいかに至難の目標であるかを本抄を呈示して認識を新たにしている次第である。