050_銅鐸
銅鐸の謎を解明する


 およそ紀元前10世紀頃から3世紀中頃までを弥生時代として区分しているが、その弥生時代を代表する出土品である銅鐸(どうたく)には多くの謎が残されている。

 弥生時代は、北方系の血を引くいわゆる弥生人(の源流となった人々)が集団で日本に渡来し、それまで北海道から琉球列島に広く居住していたいわゆる縄文人の中に侵入していった激動の時代であった。その結果、弥生人と縄文人との混血が進み、新たに日本人の源流が形成されていった時代であった。

 この弥生時代の後期には青銅器が普及し、銅鏡・銅矛(ほこ)・銅剣(けん)・銅鏃(やじり)・銅釧(くしろ)などと並んで銅鐸が使われていた。鉄器も青銅器とほぼ同時期に日本に製品が持ち込まれたと思われるが、国内での生産と普及は鉄よりも低い温度での加工が可能な青銅が先行し、鉄器の普及は弥生時代が終わり古墳時代以降となる。

 青銅は銅を主体に錫を混ぜた合金であり、銅単体の場合より低い融点を持ち、鋳造する際に湯(溶けた青銅)の流動性を更に増すために鉛も混ぜられていた。青銅は実用性の高いすばらしい合金であった。用途によって銅・錫・鉛の混合比は変えられ、合金としての青銅もその鋳造技術も次第に進化していった。強度を必要とする武器には錫を2~10%程度の金色の青銅を使い、銅鏡には25~30%程度と錫成分の多い灰色金属光沢の青銅を使っていた。銅鐸にはその中間の5~20%程度の錫が使われていた。

 銅鐸は日本独特のものであり、中国や朝鮮半島では発掘されていない。日本で発見されている朝鮮産の小銅鐸(高さ10センチ前後)は日本の初期の小銅鐸と似ている部分もあり、銅鐸の原型となった可能性があるが、いずれにせよ銅鐸は日本で独自に作られ独自の進化をした日本製品と言ってよいと思われる。

 ここで断っておかねばならないが、鐸(たく)とは中国で使われた用具の名称であり、柄を手に持って開口部を上にしてもう一方の手で打器を外側から叩いて音を出すものであり、日本の銅鐸を鐸と言っているのは後世の人が多少形状が似ていることより使い始めたことであり、銅鐸が使われていた当時にどのように呼ばれていたかとは全く関係ない名称である。実際に銅鐸と言われているものは、鐸(手に持って使う)や鐘(吊るして使う)と異なり外側から叩くのではなく内壁を叩いて音を出していた。また鈴とも異なり全体を揺らして音をだす構造ともなっていない。
 従って、実際の名称が伝わっておらず、8世紀になって続日本紀において初めて記録文書で銅鐸という名称が使われた際にも、大和国宇陀郡で見つかった銅鐸が鐸の形状に似ていたことからとりあえず銅鐸と呼んだ、ということである。
 従って「鐸」と言っているが鐸ではないこと、それゆえ鐸の意味から銅鐸の機能・用途を推定してはいけないことをまず確認しておきたい。

 銅鐸の基本構造は、細長い台形の外観をなす「鐸身(たくしん)」とその上部平坦部(「舞(まい)」という)に直立付属する半円形の「鈕(ちゅう)」と呼ばれる板状の吊り下げ部分からなり、鐸身と鈕の周辺には薄い「鰭(ヒレ)」がついている。鈕には吊り下げひも(場合によっては支持棒)を通す「鈕孔(ちゅうこう)」と呼ばれる穴が空いている。また、鐸身と舞には鋳造時に外型と内型(中子)との間の隙間を確保するための型持ち(スペーサー)によってできた「型持ち孔」が数カ所空いている。
 銅鐸のサイズは高さ10cm程度のものから時を経るにつれ次第に大型化し後期には140cm前後のものまで作られた。またこれは朝鮮式小銅鐸と異なる特徴でもあるが、全ての銅鐸には鐸身の外面や鈕に幾何学紋様や流水紋・生物・家屋・人物などが描かれており、銅鐸が使われた生活環境や文化が凝縮された姿で表現されている。

 銅鐸の材質と形状は工学的に極めて合理的にデザインされており、当時の最先端の技術が使われていたと思われる。約300年にわたって製造されたさまざまなサイズの銅鐸全般にわたって、全高(鐸身+鈕)と鐸身の比率が16:11となっているのもそのひとつの証左と言える。
 断面が円形の鐘と異なり、銅鐸は断面がアーモンド形であり、同じ高さであれば材料を大幅に節約でき軽量化も実現できる。また、鐘が全周360度の方向に音を発生させる構造であるのに対して、銅鐸は二つの広面から二方向に指向性の高い音を発生させる構造となっている。銅鐸の周辺に付けられているヒレにより、この二方向の音波特性が強調され、更に直角方向の二次振動を最小限に抑制することができる。鈕孔は薄く鋭い縁となっており、鈕孔に吊り下げ紐を通す場合でも、指示棒を通してぶら下げる場合でも、二次振動の発生を抑え銅鐸固有の一次振動を均一に長く保持することができる。
 更に驚くべきことは鐸身の厚さが数ミリメートルと薄く鋳造されているため、たとえ薄手の軽量な「舌(ぜつ)」(銅鐸を内打する舌状もしくは棒状の器具)であっても十分な音量を発生させることができ、また銅鐸の内側で舌を前後に往復させることにより容易に連打できる構造となっている。
 このように非常に効果的な音響発生装置と言えるのが銅鐸である。

 前置きが長くなったが、ここで何が銅鐸に関わる謎なのか、またその謎は従来どのように理解されてきたのか、を以下述べることとしたい。

 銅鐸に関わる謎は、
  ① どのような用途に使われたのか?
  ② なぜ土中に埋納されたのか?
 という二点に集約される。
 これらの謎について過去二百年以上にわたって諸説が論じられてきたが、全ての考古学的かつ科学的な事実に合致する説明は今日に到るまでなされていない。

 まず、現在までにどのような説があったのかを紹介したい。

 ① どのような用途に使われたのか?
  [楽器説]*
  [農耕の合図信号説]
  [観賞用美術品説]*
  [祭具説]
  [インゴット説]*
  [簡易天文観測装置説]*
 上記の諸説の内、*印を付けた説は矛盾もしくは実態乖離があるため少数意見に留まっており、現状では祭具説が主流となっている。
 なお、使用方法については、銅鐸が音を出して「聞かせる銅鐸」として発達し、その後「見せる銅鐸」に変容していったとの説が支持を集めている。(一般的には「聞く銅鐸」「見る銅鐸」としているが、私は当時のムラの権力構造を考慮して「聞かせる銅鐸」「見せる銅鐸」と表現を改めるべきと考えている。)

 ② なぜ土中に埋納されたのか?
  [穀物豊穣祈願説]*
  [埋納忘却説]*
  [地霊鎮魂説]*
  [土中保管説]*
  [境界埋納説]*
  [廃棄説]*
  [隠匿説]*
  [神への贈与説]*
 この謎については諸説入り乱れ、いずれの説も決め手に欠け、混沌としているのが現状である。
 これは、現在までに約500個の銅鐸が発掘・発見されているが、次のような不可解な諸事実が確認・再確認されており、これらを統合的に説明することがなかなか難しいことによる。
 (1) 発見された大多数の銅鐸が集落址から離れた丘陵斜面などに土中埋納されている。多くは単体で埋められているが、加茂岩倉遺跡のように39個の大量の銅鐸が出土された例もある。
 (2) 銅鐸のみで埋納されており、銅剣その他といっしょに埋納(同納)されることがない。
 (3) 銅鐸と対もしくは一部として使用される舌が銅鐸と一緒に埋納されていない。(舌が銅鐸と同じ場所で発掘される例は極めて少ない)
 (4) 深さ数十センチの比較的浅い穴に、ヒレを上下に向けて横たえて埋められており、埋納の方法に共通性が見られる。(少数ではあるが、正立、倒立、破砕の状態で発見されている)
 (5) 銅鏡・銅剣などと異なり、墳墓に副葬品として埋納された例がない。

 以上、銅鐸とはどのようなものなのかを縷々説明してきたが、これが本抄の主眼ではない。これから述べる私の新説(私論)が、銅鐸に関わるさまざまな状況証拠と合致するかどうかを読者の方々にご判断いただく際の参考になればと思う次第である。
 私は本抄において、上記の謎の解明を試みるとともに、②の謎は①の実態に伴って必然的に発生したことであり、更に②に関わる事実こそが弥生時代の歴史的変動を如実に示す歴史的遺構であることを示したい。

 まず私が確認したいことは、「銅鐸は極めて貴重なものであった」という事実である。
 銅鐸を製作するには高度な技術が必要だけではなく、鋳造に関わる精度の高い鋳型の制作(石型から始まり後に土型へと進歩している)、金属材料を溶かすための炉と多量の燃料(薪・炭)、そして青銅の合金材料(銅、錫、鉛)が必要となる。
 鉛の同位体比を分析することにより鉛の原産地が特定できるが、それによると前期の銅鐸(菱環鈕式~外縁付鈕式)は朝鮮半島産の鉛を使っており、それが後期(扁平鈕式~突線鈕式)になると中国大陸(華北)産を使うようになったことが判明している。日本産の鉛が使われるようになったのは7世紀以降であり銅鐸には使われていない。弥生時代は統一された日本という概念は成立していなかった時代ではあるが、いずれにせよ銅鐸などに使われる大量の金属材料は日本列島の外から海路を経てはるばる運ばれてきた、ということである。

 以上のことから言えることは、銅鐸を製造するためには当時としてはかなりの規模の製造インフラが必要であり、またその原材料を整えるためには、ムラの規模を超えた社会基盤が必要であった。銅鐸を生産できたムラは周辺のムラをも影響下においた大ムラもしくはムラ群ともいえる規模となっていることが前提であり、弥生時代後のクニの初期構造が形成されていたと推定される。
 また、このようにして生産された銅鐸は極めて貴重なものであり、これを手に入れることもそれなりの経済規模・社会規模をもっているムラでないとできなかったはずである。銅鐸を保有していることは有力なムラであることの証拠であり、銅鐸はムラで最も貴重な財宝でもあり、当然の帰結としてムラの中心者である村長(ムラオサ)の統治権力の象徴ともなっていた、と思われるのである。

 貴重品である銅鐸は、高床で梯子が付属した建家の中に設置された。十分な高さのある梁(はり)の中央部に丈夫な紐で吊るされ、下から舌で打ち鳴らすようになっていた。建屋の相対する2面の壁にはそれぞれ四角の窓が開けられており、その壁に並行に吊るされた銅鐸から鳴り響く音が直に窓から外に伝わるようになっていた。
 銅鐸の打ち鳴らしはムラオサの管理下に置かれ、ムラオサの指示・命令が銅鐸から発せられる音響としてムラ人に伝えられた。稲作作業はムラ最大の共同作業となっていたが、この農作業の開始と終了も銅鐸の音で知らされた。大きなムラになる程、広域に音が届くよう大きな銅鐸が必要であった。このためムラの拡大に従って、銅鐸のサイズも大きなものが求められるようになっていった。
 銅鐸は農作業の合図としてだけではなく、ムラの慶弔時の祭祀の際にも重要な役割を担った。また稲作とともに稲作豊潤を祈る祭りの風習も弥生渡来人によって伝えられたと思われるが、その稲作の祭りにも銅鐸は祭りの打楽器として使われたはずである。また、緊急非常時の警告にも使われた。目的によって銅鐸の鳴らし方も変えられており、ムラによってはサイズの異なる銅鐸を組み合わせて、複雑な連絡音パターンを構成させていたとも思われる。
 このよう銅鐸は貴重財産としてだけではなく、広範な実用性を備えていたと言えよう。また、ムラオサがその権力の象徴として銅鐸を管理しており、銅鐸から発せられる音響はムラオサの指示とも命令とも受け取られていたことより、銅鐸はムラの政治的また宗教的・精神的シンボルとして、更に言えばムラの魂として昇華されていたと思われる。
 以上が、私が推察する銅鐸の目的と意義である。

 次に、銅鐸の土中埋納の背景について、私の考察を述べたい。
 弥生時代は渡来人(弥生人)の大集団が日本に移入し、更に日本全体に広範にわたって居住していた在来人(縄文人)の生活空間に侵入していった時代であった。在来人社会に渡来人が侵入し、新たな融合社会が作られたといえる。また、渡来人にも多様なグループがあり、移入の時期もそれぞれ多様であり、数家族の小集団での移入もあり、兵士を主体とした男性集団の侵略的移入もあった。いずれにしても日本列島のあちらこちらで分散と統合を重ねながら、強力な武力を持つ新集団が各地にできてきた。その勢力図の塗り替えの激しい潮流の結果として、縄文人と弥生人(渡来人)との混血が進み、日本人と日本文化の源流がこの弥生時代に形成されていったと思われる。
 ムラも外部勢力からの侵略に備え、ムラの周りに環濠や防柵を構築したり、銅剣や銅矛・銅戈などの武器も大量に導入され、近隣のムラとの連携を強化し集団防衛を図る動きも活発化した。
 このような時代様相の中で、ムラが外部の侵略を受けると防衛のための戦いが繰り広げられることになるが、その結果敗北したムラに何が起きるのか。日本では征服された側の人々が虐殺され殲滅されることはなかったと思われる。弥生時代はいわば戦乱の時代でもあったが、その前の縄文時代に比べて日本列島の人口は約3倍に増加しているといわれる。これは戦さが行われてもひとたび戦いが終われば、勝利側は敗北側のムラ人を同化して自分の集団内に取り込むことにより勢力を更に拡大していく戦略がとられたことを示していると思われる。しかしながら、勝利者は敗北者の敗北を確実かつ永続的に認識させることができなければ、このような穏便な同化政策を採ることはできない。
 そのため行われたのが、征服したムラの魂ともいえるシンボルである銅鐸をムラ人に強烈な印象と記憶を残す形で処分することであった。
 最も簡単と思える方法は、ムラ人の眼前で銅鐸を打ち壊すことであるが、これは実際にはできない方法であった。なぜなら、銅鐸はハンマーで叩いても変形するだけで破砕することができない材質でできており、破砕するためには銅鐸を赤熱するまで熱した状態で叩くしか方法がないためで、そのための装置がなければできない非現実的なことであった。
 このため、実際に行った方法は、銅鐸をムラの境界地付近でなおかつできればムラ全域から見通せる地点に埋めることであった。ムラの中心的家屋に設置されていた銅鐸は、ムラ人の手で遠く離れた埋納地まで運ばされその土中に埋めさせられた。多くのムラが征服された大規模な戦いがあった場合には、その村々が護持していた銅鐸を全て集めさせ合同の埋納となった。
 この際に、二度とこの銅鐸はムラの中心に戻ることはなく使うこともしないことを確実にするために、次の規定に則って埋納がなされた。
 *使わない状態(音が出ない状態)を表す横置きにする。
 *二度と音を鳴らさないことを確約する意義で、舌を別途廃棄処分とし同納とはしない。
 *ムラに音が伝わらない意義を込めて、ヒレが上下方向(音の発生方向が土中)になるように埋める。
 以上が、私が推察する銅鐸の土中埋納の理由と意義である。

 なお、勝利者は征服したムラに対して、勝利者の施政に従うことを明確にするために、勝利者側の製造による新たな銅鐸を与えた可能性もあると思われる。

 私の推察は、銅鐸に関わる謎の解明となったであろうか。従来の袋小路の論争に多少なりとも光明の方途を提供できたとすれば、本抄の目的は十分に達せられたと自己満足する次第である。

 弥生時代が終焉してクニの時代である古墳時代を迎えると共に、青銅器の時代も終わりを告げ、その代表的な製品であった銅鐸も姿を消すことになる。

[参照文献など]
「銅鐸から描く弥生時代」佐原真・金関恕 編(学生社)2002年11月
「青銅鏡・銅鐸・鉄剣を探る - 鉛同位体比、鋳造実験、X線透過写真 」(国土社)2000年5月
「大国主の神話 - 出雲神話と弥生時代の祭り」吉田敦彦(青土社)2012年2月
「銅鐸の謎 - 工学的視点からの推理」武子康平(碧天舎)2003年11月
「銅鐸への挑戦4 - 破壊された銅鐸」原田大六(六興出版)1980年10月
「唐子・鍵遺跡 - 奈良盆地の弥生大環濠集落」藤田三郎(同成社)2012年6月
「鋳物の文化史」(小峰書店)2004年2月
 [http://ja.wikipedia.org/wiki/銅鐸]「銅鐸-Wikipedia」
 [http://www.emuseum.jp/](国立博物館所蔵 国宝・重要文化財)「e國寳 - 銅鐸」
 [http://www2.nhk.or.jp/school/movie/](NHK)「銅鐸のつくり方」
 [http://www.city.kobe.lg.jp/](神戸市立博物館)「桜ヶ丘4号銅鐸」
 [http://www.um.u-tokyo.ac.jp/](東京大学総合研究博物館)「銅鐸を叩いた音」