044_露の景色2
心の実相 (2) 十界互具


 十界は一瞬の心の状態であると共に、境涯を示していることを前抄「心の実相 (1) 十界」で述べたが、この十界は静的な状態として見るだけではなく、動的な変化相としてとらえることも重要である。この動的な十界の姿を十界互具(じっかいごぐ)と呼んでいる。

 十界互具は十界の動的な変化相であるが、具体的には以下の事実を示している。

 (1) 心は一瞬をとらえると十界のどれかひとつの状態(界)となっているが、次の瞬間には別の状態(界)に変化する。もちろん同じ状態(界)を継続することも多いが、別の界に変化・移行できるという事実がある。心の状態が瞬間瞬間に変化する、すなわち十界各界が固定されることなく連続的に他の界に移行していく様相と可能性を十界互具という。
 例えば、心地よい春風を感じながら満開の桜並木を心ウキウキとして散歩している(天界)と、突然運転を誤った車がぶつかってきたため(修羅界)、気が付いたら足をひかれ血が噴き出していた(地獄界)。このように外界や自らの変化に応じて心が変化していくことになる。

 (2) 十界を境涯としてとらえると、ある境涯(界)に心の基盤を置きながらも、瞬間瞬間にさまざまに心の状態(界)が現れつつ変化している。これは境涯は変わらないが、その境涯の中で心の状態が十界の中で変化している姿を十界互具という。
 例えば、人界の境涯(人として普通の状態)にある人でも、幼い子供を抱けば慈しみの心が湧き出る(菩薩界)、けんかをすれば頭に血が上る(修羅界・畜生界)、人に誉められればうれしくなり(天界)、お腹が空けば食べたくなる(餓鬼界)、ガンの宣告を受ければ途方に暮れる(地獄界)など、さまざまな心の状態に変化する。
 あたかも人界という心の基盤にバネでくっ付いた心の状態が十界の中であちこちに動いているような姿に譬えられよう。

 (3) 仏界(仏の心・境涯)と他の九界(地獄界から菩薩界まで)を対比してみると、特定の条件が整わないと顕現しない仏界は、頻度の差はあっても現れる九界とは大きな差があるように思えるが、前述した(1)/(2)の十界互具の姿は仏界・九界の区別無く働いていることも十界互具と言う。
 即ち、仏界の境涯にある人も特別の世界に固定されているのではなく、瞬間瞬間には九界のどれかの心が現れており、それが仏界の実際の姿でもある(仏界即九界という)。また、九界の境涯にある人も仏界を涌現する可能性、更に言えば九界の境涯にある人が仏界の境涯に変化していく可能性も常に内在している(九界即仏界という)。
 このように仏界を含む十界全てが、全ての人に内在しており、機に応じて十界の全てが現れる可能性を持っていることを十界互具という。

 以上の三つの視点から見た十界互具の姿を融合した実態が十界互具と言える。

 尚、十界互具を、十界 X 十界 すなわち百界、もしくは十界即百界、と呼ぶこともある。

 要約するとこれまで述べたように、心の状態を静的に見つめた実相を「十界」と言い、動的にとらえた実相を「十界互具」と呼んでいる。

[参考文献など]
 KOzのエッセイ#043 「心の実相 (1) 十界」
「平成新編 日蓮大聖人御書」(大石寺版)総在一念抄、他
 他。