043_露の景色1
心の実相 (1) 十界


 心(こころ)とは何か? 人間等の生命に宿る心のありのままの姿、実相はどのようなものなのか?

 これを明らかにするためには、その発生を知るのみならず、その極めて複雑な状態の分類、そしてその相互の関係と変化相、またそれらに働いている因果律の様相、そして更に心の器である肉体やそれが実在するための場である社会や環境との関係、等々の不可思議ともいえる諸実態と背景を明らかにしなければならないはずである。

 心の実相を客観的に把握することはこのように途方も無い知的作業ではあるが、更に言えば、心は正に主観・主体としての当体であり、心の実相が理論的に明らかになると結局自分自身の生の生きている実感としての心の実在、即ち自分自身の過去からの宿業が顕現された結果としての境涯と未来に向かっての生き方の問題に行き着くことになるとも思われる。

 心の解明は凡人では不可能に近い難事ではあるが、幸いにも仏の智恵の凝縮とも言うべき仏法ではこれを一念三千の法理として明らかにしていることより、この法理に則して解明を試みたい。
 この一念三千とは、(1)十界(じっかい) X (2)十界互具(じっかいごぐ) X (3)十如是(じゅうにょぜ) X (4)三世間(さんせけん) から構成されており、本抄ではまずその第一段階となる十界について述べることとしたい。

 十界とは、まず心の状態を大きく十グループに分類している。一瞬の心の状態は、必ず次の十の状態の内のどれかひとつの状態になっている、ということである。

① 地獄界(じごくかい)
  苦悩・苦痛の底に沈み、自力ではその束縛から抜け出せ
  ないことに強い憤りが湧き出る心の状態をいう。
  「瞋(いか)るは地獄」と要約される。
② 餓鬼界(がきかい)
  尽きることの無い欲望に支配された心の状態をいう。
  「貪(むさぼ)るは餓鬼」と要約。
③ 畜生界(ちくしょうかい)
  浅薄で目先のことのみにとらわれた愚かな心の状態を
  いう。
  また、強者を恐れ弱者をあなどる弱肉強食本能にとらわれ
  た状態にあるともいえる。
  「癡(おろか)は畜生」と要約。
④ 修羅界(しゅらかい)
  怒りの心の状態をいう。常に勝他(他人に勝つ)の念が
  はたらき、歪んだ自尊心が他を見下すように働く。
  「諂曲(てんごく)なるは修羅」と要約。
⑤ 人界(にんかい)(人間界ともいう)
  人間として普通の平穏な心の状態をいう。
  「平らかなるは人」と要約。
⑥ 天界(てんかい)(天上界ともいう)
  喜びの心の状態をいう。
  「喜ぶは天」と要約。
⑦ 声聞界(しょうもんかい)
  知的充足感にひたった状態をいう。
  自己中心的な小乗の悟り(空観)の状態でもある。
⑧ 縁覚界(えんがくかい)
  生死(自身の因縁)や自然(自身を取り巻く環境)の姿や
  変化の中に真理の一端を悟り、忘我の境にある心の状態を
  いう。
⑨ 菩薩界(ぼさつかい)
  大乗の悟りの状態にあり、利他(他を利する)の念が強く
  働いている心の状態をいう。
⑩ 仏界(ぶっかい)
  言葉での説明は困難であるが、敢えて言えば、仏の智恵を
  備え、真理を悟り、大慈悲を示す心の状態をいう。

 以上の十の心の状態の内、①地獄界から⑨菩薩界までの九界は頻度の差はあっても通常に現れるうる心の状態であるが、⑩仏界だけは条件が整わないと顕現されることがないといわれる。

 十界は一瞬の心の状態であるが、瞬間瞬間に十界のいずれかの状態に間断なく変化している。もし十界の内のひとつの状態が時間的に長く続いているいる場合、またはその状態が最も頻繁に現れてその人の心の状態の基盤となっている場合、十界は「心の状態」を指し示すだけではなく、その人の「境涯(きょうがい)」を示していることになる。
 十界を境涯の分類としてとらえた時、仏法では、①地獄界から⑥天界までを六道として、⑦声聞界から⑩仏界までの四聖と区別している。六道の境涯にある人は、その六道の心の状態が六道の範囲の中で繰りかえされる境涯であり、これを六道輪廻(ろくどうりんね)と呼んでいる。
 例えるならば、心が六道の基盤にバネでくっ付いている状態で、心が他の状態(四聖)に行こうとしても六道に引っぱり戻されてしまうような状態になっているのが六道輪廻といえる。六道の中でも更に①地獄界から③畜生界までの三悪道、もしくは④修羅界までの四悪趣の境涯になっている場合は、更にそのバネが強く惨めなことになる。ちなみに六道の中での最上位である⑥天界も不安定で決して長続きしない喜びの状態であることが六道の限界を示していると言えよう。
 尚、心の状態が境涯を決めると同時に、境涯もまた心の状態に密接に影響を与えることより、この両者(心と境涯)は不二(ふに)の関係にあると言える。

 ここで十界の発生について述べておきたい。
 心は外界を認識することによって状態が定まる。その認識はどのようななされるかが、いわゆる六識(六根)であり、人間の主要感覚器官である、眼、耳、鼻、舌、身の五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)とその受容機能としての意識(第六識)である。これらの六識が十界(心の十の状態)発生の前提となっている。
 しかしながら、六識は出産時には既に備わって生まれてくるが、その前の胎児の段階では未熟な状態から徐々に発達してくる。受精卵からヒトの基本形態に成長する段階では六識は未発達の段階にあり、従って十界は未分化の状態にある。この段階で存在するのは六識に発達していく可能性を秘めた初源構造であり、これを仏法では第八識と呼ぶ。また、この八識から六識が整えられるまでの途中段階(前構造)を第七識と呼んでいる。
 第八識の段階では十界は未分化の混沌一体になった状態であり、いわば心はひとつといえる基礎状態にある。第七識(マナ識と呼ぶ)と第八識(アラヤ識と呼ぶ)の機能と働きは第六識が整い十界が発生した段階になっても、六識全体を支える基礎構造として存続していると思われる。医学分野などでいわゆる意識下(自我などの領域)と呼ばれる心の深層領域は、この第七識と第八識のことに該当すると思われる。
 尚、事の一念三千の立場では、第八識が存在する大前提として更に第九識(アマラ識と呼ぶ)が実在しているとしており、これを心王と呼んでいる。
 また、仏の境涯に当てはめた場合、第六識を天眼、第七識を慧眼、第八識を法眼、第九識を仏眼、とも称している。

 十界は、一念三千の法理の第一段階であり、抄を改めて十界互具、十如是、三世間について述べていくことにしたい。

[参考文献など]
 KOzのエッセイ#041 「仏法とは」
「平成新編 日蓮大聖人御書」(大石寺版)一念三千理事、十八円満抄、他
 他。