041_蓮華
仏法とは


 仏法(ぶっぽう)とは、元来、釈尊(釈迦牟尼世尊)が一代で説いた法門(宇宙森羅万象の法則)をいう。

 釈尊は、四苦(生老病死)に直面する衆生の姿に自らの使命を感じ、19歳で王子の立場を捨て出家を決意し修行に入った。10年以上に及ぶバラモン的な難行苦行を経て、最後にこの修行を否定し自らの覚悟の瞑想に入り悟達を得た(成道)とされる。この究極の悟りは宇宙森羅万象の摂理(因果律)の感得により、衆生の成仏を具現化する法門へと開かれた。

 釈尊が説いた教法は8万4千の多岐にわたるともいわれているが、像法時代(釈迦滅後1000年から2000年間、「周書異記」によれば釈尊入滅は紀元前949年、他に紀元前485年、同383年説がある)に中国に現れた天台大師(智顗)がこの膨大な釈尊の経典を概観達観して、時系列と経典の内容を分析し「五時ハ教」として体系化した。
 因みに「五時」とは釈尊の説法の時代順に、華厳(けごん)時・阿含(あごん)時・方等(ほうどう)時・般若(はんにゃ)時・法華涅槃(ほっけねはん)時を言い、30歳成道から80歳入滅までの約50年間の経典を立て分けている。「八教」とは、説法の形式により化儀の四教と、教の内容から化法の四教に分類している。
 この天台の精緻な分析と統合により、それぞれの経典の位置付けと高低浅深が一目瞭然となり、それまで玉石混交の感を拭えなかった仏経典全体が近代的な仏法体系として集大成されるに至った。
 この天台の功績により、仏経典の最高峰が「法華経」(「妙法蓮華経」鳩摩羅什漢訳)でありその法華経の真髄が「一念三千の法門」であることが明らかにされた。
 天台は釈尊一代聖教の体系化を図ったのみならず、天台宗を開宗し当時中国で南三北七と呼ばれていた仏教十宗派を公場対決で論破し天台宗に帰伏させている。その後にインドより中国に伝えられた真言宗(大日経を依経)は天台の義である法華経の一念三千の法門を盗用し、大日経にもこれが説かれていると歪曲して宗派の存命を図った。天台が帰伏させた十宗以降に出現したこれら真言宗・法相宗・華厳宗については、天台宗第九祖の妙楽大師(湛然)があらためて論破している。

 仏法東漸の歴史的必然性があるのであろうか、インドに興隆した仏法は中国から更に東端の地である日本に伝えられここで定着した。
 天台と同じく像法には、日本において伝教大師(最澄)が天台の一念三千の法門を基盤に天台宗を開き、南都六宗といわれた奈良を拠点にした仏教諸宗派を桓武天皇の前で公場対決し帰伏させた。しかしながら比叡山天台宗は第三代座主慈覚より真言密教への傾倒が著しくなり、伝教により確立された法華経の系譜が揺らぐこととなった。

 法華経に示される白法隠没(びゃくほうおんもつ)・五濁悪世(ごじょくあくせ)の様相を呈した末法(釈迦滅後2000年以降)に入り、日蓮大聖人が日本に出現した。
 日蓮大聖人は、国内の主要寺院に収蔵されていた釈尊の仏教典(一切経)の全てを日本人として初めて(そして最後と思われるが)読破読了し、天台大師が確立した仏法軌範を根底から再評価しその限界を明確にされた。すなわち、天台の法門を「理の一念三千」と改めて位置付けし、法華経の極理は「事の一念三千」であると確定し、この極理の当体を「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」と定義された。
 ここに釈尊が説いた仏法が二千年を経て日本で結集(けつじゅう)し完成したと言える。
 日蓮大聖人は、日本に存続していた全ての宗教、特に仏教各宗派について、その教義・経典の出源・開祖等の己義と現証について矛盾を指摘し完璧な破伏と論破を行った。また、その後に発生した多様な派説や新説については、日蓮正宗第26世日寛上人が総覧して論破されている。

 仏法は3000年の歴史を経て今日に至っているが、その法門はますます輝きを増し、科学全般の目覚ましい進歩にいささかも遅れをとることなく、逆にその先見性と本質的な知見が科学の未熟さを浮き上がらせる様相を呈している。

 最後に、仏法は仏の智恵の凝縮であるがゆえに単なる理論展開に収まるものではなく、全ての人間の実生活の中に活かされることに意義付けされていることを確認しておきたい。それゆえ、仏法の最大の目的は釈尊が目指した全ての衆生の成仏にあり、この事実は3000年経ても変わっていない。

[参照文献]
 「平成新編 日蓮大聖人御書」(大石寺版)全編
 「教学歴史用語解説集」和党編集室
 「日蓮正宗要義(改訂版)」日蓮正宗宗務院
 他多数。