036_弥生土器縄文土器
日本人の源流


 細面に繊細な造りの京美人、色白で目鼻立ちのくっきりした山形美人、共に郷土の歴史をただよわす日本美人の両極であろうか。
 江戸時代の江戸(現在の東京)に住んでいた武士階級(士)と町民階級(農工商)は、違う人種かと思われる程に骨格形質の違いがあった。
 また、明治から昭和に至るまで、陸軍歩兵師団では、薩摩隼人の威名をも持つ鹿児島連隊と都男からなる京都連隊とはその戦闘力に歴然とした差があったという。

 日本人は日本列島に住む単一民族と言われて久しいが、その日本人の実像は単一という表現では言い尽くす事ができない、実に多様性に富む複合民族の姿が随所に見受けられる。
 この日本人の底流に内在しさまざまな局面で顕現化する多様性こそ、日本人のルーツの多様性にその源流があり、数千年から数万年に遡る移入と混血の歴史によってもたらされたものと言えよう。

 日本列島には4万年前より古いと思われる旧石器遺跡も何カ所か発見されていることから、この頃までには日本にヒトが住み始めていたと思われるが、大きな流れとしては4万年前から2万年前の時期に、日本列島の北と南、また西からさまざまなDNAと生活習慣を持つ人々の移入が本格化したと思われる。
 1万6千年前頃から始まり3千年前(紀元前1000年頃)に終わったとされる縄文時代は、その前の旧石器時代の移動狩猟生活から半定住・定住への生活様式に変わり、狩猟・採集・漁労・栽培が混合で始まった時代である。
 いわゆる縄文人が日本列島の北(北海道)から南(琉球諸島)まで広く点在し、いわゆる縄文土器といわれる土器類の制作が行われ、黒曜石などを高度に加工した石器も普及し、沿海の海上輸送を含む物流も行われていた。
 北・南・西からの海を隔てての移入は旧石器時代から縄文時代を通して絶える事なく、間断的に続いたと思われる。移入と混血と定着が時間をかけて繰り返され、縄文人の人口は、日本全体でおおよそ数万人~30万人で増減推移していたといわれる。

 日本人のルーツを語るとき、起源前1000年頃を境にして大きな変化が起こったことを忘れてはならない。この時期は西日本と東日本とでは時期のずれがあるが、縄文時代が終わり弥生時代に入った時期で、中国大陸から北方系の血を引く多数の(いわゆる)弥生人が北九州などを経由して日本に移入(渡来)してきたことである。また集団自衛的住居群(環濠集落)が建設され、並行して武具の改良が進んだと思われることより、ムラ、部族間の勢力拡大の争いが特に西日本で多発した時代といえよう。既に縄文時代から米作が始まっていたが、弥生時代には米作地帯が東日本に拡大し、道具の改良もあり生産増加がなされたと思われる。
 これらの変化により、弥生時代には人口が倍増し、日本人は60万人規模になったといわれる。

 これらの弥生時代の渡来人(弥生人)の源流をたどれば縄文人と同様アフリカに行き着く。
 ヒト(新人:ホモ・サピエンス)は十数万年前にアフリカで誕生し、10万年以上前に初めてアフリカを出た。一部はアフリカを出て東に向かい6万年~5万年前までには東南アジアにたどり着き、そこから一部は北上して、シベリア、北東アジア、日本列島(縄文人の源流となった)、琉球諸島を含む南西諸島に拡散し、一部は南東に移動してオーストラリア南東部にまで達した。
 シベリアに移動した人々は遅くとも2万年前頃までにはバイカル湖付近に到達し、寒冷地適応して北方アジア人の特徴を獲得した。この集団はその後南下・東進して紀元前1000年頃までには中国東北部、黄河流域、江南地方、朝鮮半島などに住み着いた。この人々の一部が縄文時代の終わる時期に主に朝鮮半島経由で西日本に渡来し、いわゆる弥生人として日本列島に拡散していった。。
 この結果、弥生人と縄文人との混血化と弥生文化が西日本から東日本に相当の勢いを以て拡がっていった。
 (なお蛇足での付記となるが、日本人と同源のDNAを持つ北方アジア人の一部は、ベーリング陸橋を通って北米へと移動していった。)

 ヒトの系統を研究する手段としてさまざまな方法があるが、人骨の形質、DNA、mtDNA(ミトコンドリアDNA)などが有力な方法とされ、これらと併せて遺跡からの発掘品や血液型などが参照される。

 DNAから見ると、日本人はどのような特質を持っているのであろうか。
 父系統を示すY染色体のDNA型はAからTの20系統があるが、その内日本人には特にD2系統とO2b系統が際立って多い。C1も日本のみに見られ他の東アジアには見当たらない。逆に他の東アジアで見られるC3やO2aは日本では少ない。
 アイヌ人の特質でもあるが、縄文人特有の形質ともいえるD2系統(D系統)は、Y染色体の中でも非常に古い系統であり、現在の世界では極めて稀な系統であり日本がその希少な最大の集積地点となっている。D2系統は日本(アイヌ人、南北琉球諸島人を含む)のみに存在し、他の(中国や朝鮮半島を含めた)東アジアには見当たらない。
 弥生人の形質に含まれるO2bは、例外的に朝鮮半島とベトナムに見られるが他の東アジアでは皆無に近い。
 以上のようにDNAからは、縄文人と弥生人の両方の特質が日本人に顕著に現れており、世界的視野からも日本に偏在的に集約されていると言えよう。

 母系のDNAともいえるmtDNA(ミトコンドリアDNA)から見ると、日本人はどのようなルーツをもっているのであろうか。実は、弥生人の源流のところで上述したアフリカから日本に到る長い道程は、mtDNAの研究からわかってきた最近の成果である。

 アイヌ人と古代琉球人との関係や、弥生人が縄文人の中に入っていった具体的な動態など、これから解明が進むと思われる領域は多々あるかと思われるが、大要のところでは、多方向からの移入により成立した縄文人とその後の弥生人の移入により、先住縄文人と渡来弥生人の中間の形質を持った現代日本人の直接の祖先が誕生したことはほぼ間違い無いところである。
 元々多様なDNAを獲得していた縄文人DNAに、複雑な変遷を経て獲得された弥生人DNAが重なり、現代日本人のDNA基盤ができあがったことが、日本人のルーツでありそこに内包された多様性の源流となっていると言えよう。

 弥生人渡来以降も、3世紀中頃に弥生時代から古墳時代に移り更に古墳時代が終わる7世紀末頃、朝鮮半島では百済が滅亡し、百済王以下多くの百済人が渡来し大和朝廷に仕えた。更には、新羅、高句麗、ペルシャ、インド方面からも、中には秦の始皇帝の子孫と称する人々など多様な人々が日本に渡来してきた。これらの人々のDNAや文化もまた日本人の血の中に取り込まれていった。

 最後の確認となるが、日本人のDNAの多様性は分子人類学から解明されていることであるが、DNA以上に生活・風俗、農耕、宗教、言語、文字、道具、技術、民族史、更には日本犬の祖先との関係など文化諸般にわたる文化人類学的な視点が更に重要な意義を持つことは無論のことである。これら日本文化と日本語の源流と特質については、別の機会に思索していくこととしたい。

 なお宮城県北部の上高森遺跡からは、古地磁気法による年代解析から56万年前と62万年前の地層に挟まれる地層から旧石器時代に属する石器が出土している。これは約60万年前にこの場所にヒトが居住していたことを示している。この時期はアジア大陸から分離して既に日本列島が形成されていた時期であり、約60万年前に日本にヒトが住んでいたことになる。ただ、このヒトがホモ・サピエンスであったのかそれとも別の亜人類であったのか、また、約4万年以降日本に移り住み縄文人に結びつく日本人の源流とどのような関係を持つかは現時点では不明である。

[参照文献など]
 KOzのエッセイ#031「日本列島の形成」
「アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」溝口優司著(ソフトバンク新書)
「日本人になった祖先たち」篠田謙一著(日本放送出版協会)
 [http://ja.wikipedia.org/wiki/日本人]「日本人-Wikipedia」
 [
http://www.geocities.jp/honmei00/zasugaku/jiyhoumonjidainojinkou.html]
 「縄文時代の人口は?」
 [http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィルタ]「ウィルタ-Wikipedia」
 [http://ja.wikipedia.org/wiki/縄文時代]「縄文時代-Wikipedia」
 [http://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代]「弥生時代-Wikipedia」
 [http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html]「弥生人の起源」
「考古学のための年代測定学入門」長友恒人編(古今書院)