033_信濃町界隈Map
信濃町の自然


 1950年代、幼稚園に入る前から小学校6年生の間、新宿区信濃町25番地、が私の家の所在地であった。そこには父が勤めていた大蔵省印刷局(現在の独立行政法人 国立印刷局)の信濃町官舎があった。
 信濃町は、1984年に甲武鉄道(現在のJR中央線)に信濃町駅が開設されて以来交通の便が良く、都内でも早い時期から上下水道が敷かれた文化的な町であった。池田勇人元総理大臣の私邸もすぐ近くにあり、秋になると私邸から落ちた椎の美を食べながら小学校(四谷第六小学校)に通った思い出が残る。

 信濃町は周辺を豊かな緑に囲まれていた。小学校の西には新宿御苑があり、信濃町駅の南には明治神宮外苑が広がり、中学校(四谷第一中学校、現四谷中学校)の南東は赤坂離宮と東宮御所の森に臨んでいる。北に口を開けたU字型の緑地ベルトの真ん中に収まった場所が信濃町であり信濃町25番地であった。

 都心には珍しい自然環境に恵まれた場所のおかげであろうか、庭にはさまざまな昆虫が顔を見せていた。黒アゲハ、紋黄チョウ、紋白チョウ、シジミチョウが菖蒲やカキツバタ、山吹、白桃の花に舞っていた。鬼ヤンマや銀ヤンマなどのトンボ、色々なセミ、バッタ、そして夏の夜にはクワガタやカブトムシも灯りを求めて飛んで来た。こおろぎやカマキリもいっぱいいた。これらの虫は親に買ってもらった昆虫図鑑を見ながら自然と名前を覚えることができた。
 夏休みになると朝早くから外苑に行き、クヌギの樹液が出ている所でミヤマクワガタを探した。昼になると、長い竿をつないだ昆虫網を持って林の中をアブラゼミやミンミンゼミを追った。外苑の石造りの丸い池にはアメンボウが水面を走り、水中にはゲンゴロウやミズスマシも見え、糸とんぼやアキアカネも水面近くを飛んでいた。
 庭の前の崖から落ちてきたホオジロのひなを育てるために、家の基礎コンクリートに細長い袋状の巣を作る地蜘蛛を捕まえては餌として与えたこともあった。このホオジロは手乗りができるまでなついたが、飛べる体力が整ったところで自然に帰してやった。

 虫について特別な思い出が、赤坂離宮のバッタだ。今は迎賓館となっているが、当時は旧赤坂離宮を改装した国立国会図書館であったが、はっきりしないが小学校1、2年生のころの夏休みであったと思うが、父と自転車でこの赤坂離宮に行ったことがある。父からもらった折りたたみ式の子供が使うには少々もったいない捕虫網を持って、赤坂離宮の裏手にあった人の入らないような雑草地となっていた野原に行った記憶がその部分だけ鮮明に残っている。
 ススキだったと思うが背丈の高い草が生えており、草をかき分けながら行くと、突然キチキチという羽音をたててショウリョウバッタが飛び立つ。子供の両手幅もあろうと思われる巨大なショウリョウバッタが次々に人の接近を感じて飛び立って行った。網で捕まえることができても手で掴むのが躊躇する大きさであった。また、これもまた巨大な殿様バッタが勢い良く空中に飛び上がっていった。ショウリョウバッタも殿様バッタも日本で最大類のバッタではあるが、この赤坂離宮の誰も来ない秘匿の野原のバッタは、他ではとても見られない特大の、バッタ達であった。このようなバッタを見たのは私の生涯でもこれが最初で最後であったと思う。

 今、孫達が歩き始める時期になって人一倍思うことは、孫達に残された自然の生き物たちに接する機会を少しでも作ってやりたいと思うことしきりである。