013_フラクタル
英知の発露


 今の日本は元気がない、と言われている。

 今と明治維新と比較して、今の日本は人材がなかなか表に出てこない。幕末から明治開花の時期は、日本全体に行き詰まり感が蔓延し、同時に外国からの侵略圧力が年を追う毎に強まっていった、そのような時代様相であった。今の日本の様相と実に良く似ていると思える。
 しかし、幕末から明治にかけての日本では、さまざまな分野であたかも新緑が灰色の世界から一斉に芽生えるように人材が歴史の表に登場した。今の日本にはそのダイナミズムが見えてこない。

 このような時代は、新旧の思想と価値判断基準の葛藤が起こり、国内が騒然とし、外国からの圧力が強まる、という共通する現象が起きてくる時代と言える。日本はこのような時代を何回か経験してきている。朝鮮半島などを経由して中国大陸の文化が流入し聖徳太子が十七条の憲法を策定した飛鳥時代、天災が頻発し二度の元寇を受けた鎌倉時代、鉄砲とキリスト教の感化を受けた争乱の戦国時代、そして欧米の植民地拡大の最後の波をかぶり始めた幕末から大政奉還の明治維新。日本はこのような国難に遭うと予想外の底力を発揮してそれを乗り越え、逆に次の時代への発展の足掛かりに変えていった。このような国難の時代には、必ずと言ってよい程人材がキラ星のように舞台に登場した。
 今の日本には、未だこれがはっきりとは表に出てきていない。社会の多方面で多数の新しい顔を持ち、新しい表現力を持った、そして英知を携えた大人材が登場すべき時代様相となっているにもかかわらず。

 最近、東京工業大学大学院の今田高俊教授がひとつの提言をされた。
 現在、日本の国論を二分するような、原子力発電所の建設と廃止について、「賛成」「反対」のせめぎ合いを行っている。どちらも現実と理想の狭間で妥協の余地が無い対立にみえる。今田教授の提言とは、「原子力を廃棄物の量で管理する発想が現実的である」という視点に立った主張をされている。核廃棄物の総量と上限を決めることが、原発の存続・廃止を決める現実的な判断をもたらす、というするどい指摘である。原子力に関わる現在の技術水準を知り尽くした専門家の英知であると、私は思う。なぜなら、今田教授は、「廃棄物処分の問題は賛成・反対にかかわらず逃げられない課題で、意見対立を超えて議論する端緒となる」と考えているからである。
 問題の客観的な理解と判断の上に立って現実的な解決の方途をも熟慮した提言であり、私はこれを「英知」と呼びたい。また、英知に裏付けされた指導力を持つ人を「人材」と言いたい。このような人材が、政治の分野だけではなく全ての社会活動の現場で続々と表に登場してくることを切に願う。

[参照文献]
「原発廃棄物、処分法に新提言」(日本経済新聞 電子版 2012.10.03)