#023 16世紀、日本はなぜ植民地とならなかったのか?



16世紀、日本はなぜ植民地とならなかったのか?


 16世紀は日本では戦国時代と称される混乱の時代を迎えていた。一方ヨーロッパでは後に大航海時代とよばれる植民地拡大の動きが活発化した時代で、東アジアにも西と東と両方向からヨーロッパ列強による植民地化の圧力が強まっていた。
 そのような時代様相にあって、なぜ日本はヨーロッパ列強の植民地とならずにすんだのか?

 最初に動き始めたのは15世紀末にイベリア半島からイスラム勢力を押し出しキリスト教(ローマ教会)による絶対王政を成立させたスペインとポルトガルであった。このイベリア両国は海軍力とキリスト教布教を表裏一体化させて海外覇権と植民地化を進めていった。

 まずポルトガルが東回りの遠洋航路によりアフリカ・アジアへの進出を始めた。1498年にバスコ・ダ・ガマが既知となっていたアフリカ南端の喜望峰を回って更に遠征を伸ばし南インドのカリカットに到着した。その後、アジア全域の植民地統治の拠点として1512年までにインドのゴアを永久要塞化し、矢継ぎ早に1510年にはセイロン島を征服し、1511年にはマレー半島のマラッカ王国を滅ぼし、1521年にはインドネシアのモルッカ諸島(香料諸島)を占領した。ゴアはポルトガルのアジア軍政商拠点としてだけではなく、イエズス会宣教師によるキリスト教の東アジア布教の前進拠点ともなった。
 1517年にはポルトガル船が明のマカオ(澳門)に漂着し、その足掛かりを得て後交易を伸長させ、1557年にはポルトガルの通商定住が認められ租借地となった。マカオはまたイエズス会の東アジア布教の最前線基地ともなった。

 一方スペインは、イタリア人クリストフォロ・コロンボに命じ、西回りのアジア航路開拓を図った。1492年にコロンブス(コロンボの英語読み)は西インド諸島バハマのサン・サルバドル島に到着し、キューバ・ハイチなどを調査し帰国した。
 スペインは新航路と新世界の発見を機に、アメリカ大陸に積極的な進出を図り原住民からの徹底した略奪を行った。1521年には中米のアステカ王国を征服し、1533年には南米のインカ帝国を滅ぼし、覇権を広げていった。
 1520年にはスペイン王の信任を得てポルトガル人のフェルディナンド・マゼランが大西洋から太平洋に抜ける水路(マゼラン海峡)を発見し、更に1521年には太平洋を西進してフィリピンに到達した。スペインは6次にわたる遠征隊をフィリピンに派遣し、遂に1565年にはフィリピンの征服とキリスト教への改宗と服従による統一を果たした。スペインは1535年にメキシコにヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王を置き、ここから太平洋をまたいでフィリピンの植民地化と統治を行った。
 フィリピンの統治を開始した後も、フィリピン南部の地域ではイスラム教徒が頑強にスペイン人に抵抗し、300年以上に渡ってモロ戦争と呼ばれる抗争が続いた。またスペインの支配地域でもカトリック化した原住民などの反乱が相次ぎ、フィリピンの領有化を狙うオランダとの防衛戦もあり、スペインはフィリピン統治に多大なエネルギーを費やさざるをえなかった。一方では、スペインは新大陸のペルーとメキシコで得られた膨大な銀を使いスペイン銀貨を鋳造し、それをフィリピンを中継地として明などとの貿易の対価として活用し巨利を得た。
 スペインは更にフィリピンと日本との中間に位置する台湾の北部に進出し砦を築いてオランダと対抗した。

 スペインとポルトガルは他のヨーロッパ列強に先行する形で東アジア植民地化を進めたが、両勢力が衝突したモルッカ諸島での領有権争いを契機として、1529年に両国間でサラゴサ条約が締結された。その条約以降、モルッカ諸島の権益はポルトガルに移り、スペインはフィリピンの統治に専念する事となった。

 日本との接触は、1543年にポルトガル船が種子島に漂着し、火縄銃を日本に伝えた時に始まる。1550年には平戸にポルトガル船が来航し、領主松浦隆信に商館設置が認められいわゆる南蛮貿易が始まった。1580年には日本初のキリシタン大名となっていた大村純忠は長崎港周辺をイエズス会の教会領として寄進し港の占有使用権もイエズス会に与えている。
 スペインはフィリピン総督の使節として1592年にドミニコ会、1593年にフランシスコ会の宣教師を日本に派遣し豊臣秀吉に謁見し、布教を開始している。

 16世紀の日本周辺国の状況は、豊臣秀吉が1592年から98年にかけて文禄・慶長の役と呼ばれる遠征軍を朝鮮半島に派遣しての明・李氏朝鮮連合軍と16世紀の東アジア最大といわれる戦争を行っている。また、明は16世紀半ばから倭冦(後期倭冦)による沿岸地域への侵略に苦しんでおり度々制圧軍を繰り出すと共にポルトガルや日本に対しても倭冦制圧ための協力をもとめていた状態にあり、倭冦は1588年に豊臣秀吉が倭冦取締令を発令するまで活動を続けていた。いずれにせよ16世紀、明も李氏朝鮮も日本を侵略できるような状況にはなかった。

 以上のような状況にあった日本がヨーロッパの列強、16世紀においては特にスペインとポルトガル、によって日本への侵略が防止できたのは、主に次のような理由によると考える。

 ① 貿易風(東から西に向かう北赤道海流)を利用してアメリカ大陸経由で東アジア進出を果たしたスペインは、太平洋の西端で北に向かう黒潮で北上を図ったが、日本に到達する前にまずそこにはフィリピンがあり、ここでの侵略が先行した。また、フィリピンでの統治には最大限の力を使わざるをえず、親潮に乗り北上し更に北太平洋を東に向かう偏西風を利用してメキシコに戻るルート途上に日本がありながら日本への対応は消極的なものとならざるを得なかった。
 ポルトガルはフィリピンの南側(モルッカ諸島)と東側(マレー半島のマラッカと中国の一部)での交易に力を注力しており、日本には先手を打ったもののキリスト教の布教と交易による前線活動に限定せざるをえなかった。

 ② 日本では豊臣秀吉により1590年に天下統一が達成され強力な統一国家の体制が成就し、対外的な国防力確立が間に合った。15世紀末には火薬が国産化がされ、16世紀末には鉄砲の国産化が進み50万丁の鉄砲を保持する世界最大の鉄砲保有国となっており、陸上戦力としては日本は十分な防衛力を確保していた。

 ③ キリスト教布教により九州の一部地域の確保が進んでいたが、侵略手段であるとの危惧を抱いた豊臣秀吉(とその後の徳川幕府)により段階的に禁教政策が採られ長崎などの譲渡地の秀吉直轄領化が図られたため、キリスト教を利用しての侵略は阻止された。

 ④ 尚、これは17世紀に入ってからのことであるが、1639年以降の鎖国政策はポルトガル・スペインに続く後発のオランダ、イギリス、フランスなどからの侵略の足掛かり構築を200年以上に渡って防ぐ効果があったと思われる。

 これは仮定の話ではあるが、もし日本の統一が数十年遅れていたら、もしフィリピンがなかったら、日本の歴史は大きく塗り替えられていたのかもしれない?