#080 日本仏教史における法華経

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日本仏教史における法華経

 日本における仏教史を語るとき、三度の大きな転換期があり、その全てが法華経を基軸にしてなされたことが特筆される。

 ちなみに法華経とは釈尊の入滅前8年間に説いた至高の経典といわれており、5世紀の初め中国後秦時代の仏典翻訳僧である鳩摩羅什(Kumarajiva 344~413頃)がサンスクリット語のSaddharma-pundarika-sutraから漢語に翻訳した「妙法蓮華経」が最も精確な全訳とされている。この妙法蓮華経の略称が法華経(ほけきょう)である。

《聖徳太子の法華経宣揚》
 最初の転換期は、6世紀に百済など朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝えられた際に、日本古来からの天神地祇を尊崇する地場の宗教(祀りごと)を擁護する勢力との対立により生じた。
 仏教の導入を進めようとする(崇仏派の)蘇我氏と神祇を守ろうとする(排仏派の)物部氏の熾烈な対立はおよそ40年間続き、物部氏の没落をもって6世紀末に崇仏派の勝利が確定した。
 これにより日本における仏教の本格的な普及が始まったと言えよう。

 対立を終焉させ国政に仏教を定着させた功労者の中心に厩戸皇子(うまやどのおうじ 574~622 聖徳太子)がいた。
 聖徳太子は仏教の三宝(さんぼう 仏・法・僧)を敬い和の精神を基本にした十七条憲法を制定し(604)、自ら法華経、維摩経、勝鬘経を講じ、その解説書である「法華義疏(四巻)」「維摩経義疏(三巻)」「勝鬘経義疏(一巻)」(三経義疏)を著した。
 聖徳太子は、中国・梁の僧法雲(467~529)は法華経と維摩経を講じて名声を高めたと言われるが、その法雲が著した法華経の解釈書である「法華経義記」を「妙法蓮華経」の講説書として使用している。
 しかしながら、聖徳太子が自ら著した「法華義疏」には、「法華経義記」を主に引用しながらも、法華経が唯一最高の経典であるという一仏乗の価値観を読み取り、太子独自の法華経についての深化した理解力と解釈が織り込まれている。
 太子の法華経に関する理解度の深さは、595年に来朝し太子の師となった慧慈が615年に一旦高句麗に帰り、三経義疏を講演弘通していたことからもうかがえる。
 
 聖徳太子が推古天皇の摂政となったこの時期(飛鳥時代草創期)に、法華経が主体となって仏教が国政の場に取り込まれ、多数の仏教寺院の建立が始まった。

《伝教大師の法華経流布》
 次の転換期は奈良時代末期から平安時代にかけて、日本天台宗の開祖である最澄(767~822 入寂44年後に伝教大師と称される)によってなされた仏教改革である。

 この時代都は奈良の平城京に置かれ、南都六宗と呼ばれる仏教宗派が隆盛を誇り、道鏡に象徴されるように国政にまで大きな影響力を及ぼしていた。
 南都六宗とは、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗をいう。尚この内、成実宗・倶舎宗・律宗は小乗教に属する。
 当時は一寺一宗の姿ではなく、律令制度のもと寺院は学術拠点であり宗派は学派に近い認識がなされていた。例えば、大安寺は三論宗と成実宗、興福寺は法相宗と倶舎宗、東大寺は倶舎宗と華厳宗など六宗、元興寺は三論宗と成実宗と法相宗、というような状況にあった。

 桓武天皇(737~806 在位781~806)は、南都六宗の影響力から距離を置きたいとの考えを強く抱いており、平城京からの遷都をこころみた。長岡京への遷都(784)は10年で頓挫し、改めて同じ京都盆地に造営された平安京への遷都を行った(794)。

 この遷都に際して、新仏教界の枢要として起用されたのが伝教大師であった。
 伝教大師は12歳のときに出家し、六宗と禅宗を極め19歳で東大寺にて具足戒を受けた。更に仏教の奥義を極めるために、この年(785)比叡山に登り山林修行に入った。
 天台教学に由来した院号を付けた一乗止観院を建立し(788)、後に延暦寺と称される大乗戒壇寺の基礎を築いた。ここを活動の拠点にして一切経(全ての仏経典)を読了するとともに、天台大師(538~597 中国天台宗の開祖)の構築した五時八教の教判に基づき最高峰の教えとしての法華経に行き着いた。

 延暦13年(794)9月、平安京遷都の前月に、東北方向から平安京を望む比叡山にて七日間にわたる一乗止観院初度供養会が奉修された。桓武天皇が法要参加のために行幸したともいわれ、南都六宗の高僧も参列した。
 延暦17年(798)11月、比叡山延暦寺にて伝教大師により法華十講が創始された。法華経八巻と法華経の開経(無量義経)と結経(観普賢菩薩行法経)を併せて法華三大部十巻の講義である。天台大師の法華経に関する講義書である天台三大部 (「摩訶止観」「法華玄義」「法華文句」)に基づいた講義であった。
 延暦20年(801)の法華十講では南都六宗七大寺の高僧10人が招かれている。
 延暦21年(802)正月、和気弘世(わけのひろよ)の請によって、高雄山寺において法華十講の10人に4人を加えた南都六宗七寺の碩徳14人(興福寺法相宗の修円、大安寺三論宗の善議・勤操、元興寺法相宗の奉基・賢玉、東大寺三論宗の玄耀・法相宗の道証・華厳宗の勝猷、更に薬師寺・西大寺・法隆寺などから寵忍、安福、
慈誥、歳光、光証、観敏)が招集され、桓武天皇の行幸のもとに伝教大師による法華会(法華経講義)が開催された。
 伝教大師の講義は天台三大部を駆使して行われ、六宗のそれぞれの所立に対して詳細に文証を挙げて完膚なまでに論折した。これに対して六宗の高僧達は一言も反論できずに押し黙ってしまったと伝えられてる。この姿に桓武天皇は驚愕し、14人に対して勅宣を下して責め、承伏の謝表(教説承服の感謝申状)を提出させ、南都六宗を伝教大師の下に帰伏させた。
 謝表の中には、長年の法相宗と三論宗の教義論争も伝教大師の一切経を網羅した上での
甚深の妙理によりあっけなく氷解・瓦解してしまったことも述べられている。このように六宗の内の大乗教(三論、法相、華厳)が法華経の教理に破れ、付宗としての小乗教もそれに従った。
 これにより、
桓武・平城(在位806~809)・嵯峨(在位809~823)の三代天皇の二十数年間は、日本国中の寺院は全て法華経を依経とする比叡山天台宗(延暦寺)の末寺の位置付けとなった。

《日蓮大聖人の文底法華経》
 3回目の転換期は鎌倉時代に入り、日蓮(1222~1282 日蓮大聖人もしくは日蓮聖人と称される)によってなされた宗教変革である。

 聖徳太子と伝教大師によって主導された法華経を基軸にした宗教改革は、いずれも天皇の権威(国家権力)に基づいてなされた国策宗教の改革であった。
 しかしながら日蓮大聖人は日本の仏教各宗派全てを謗法(正義に違背する教義・行為)であるとして、国家権力(鎌倉幕府)をも諌暁(かんぎょう)の対象とした過去例を見ない仏教改革であった。
 日蓮大聖人は末法(当時、周書異記による永承7年(1052)から末法に入ると考えられていた)に入って初めて題目「南無妙法蓮華経」を唱え(1253)、初めて文字による曼荼羅(本尊)を著したことも特筆される。

 明治末期にクリスチャンである内村鑑三が日本初の本格的英文出版書である「代表的日本人(Representative Men of Japan)」を出版したが、選出した5人の代表的日本人の中で唯一の宗教人として日蓮聖人(Saint Nichiren)を選んでいるが、その理由は「日本人の中で最も正直で最も勇気ある人」としている。
 末法において法華経、特に本門寿量品の文底に秘し沈められている三大秘法(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)を顕現することが最も重要であり、これにより全ての人の成仏が実現する、との主張を一切の妥協なく実践したのが日蓮大聖人であった。
 この時代の主要仏教に対して、大聖人の緻密な考察から導き出された次の「四箇の格言」は謗法の理由とその結果を的確に指摘している。
 念仏無間(地獄の業)・禅天魔(の所為)・真言亡国(の悪法)・律国賊(の妄説)。これらの格言は、大聖人の謗法宗教に対する攻撃の激しさも物語っている。
 この主張は日本の全仏教界を謗法宗教として敵に回すことでもあり、そのまま国主(鎌倉幕府)をも折伏(諌暁)することでもあった。これにより、竜の口の法難(1271 斬首刑場での臨死)をはじめ数度の死に及ぶ法難を受けた。

 日蓮大聖人は内村鑑三が全世界に伝えたそのままの生涯を全うするとともに、二千年前に釈尊が法華経の中で、末法に現れるであろう法華経の行者の予言が、唯一人日蓮大聖人がその予言のままの姿で現れたことにより、その予言が嘘妄とならず法華経自体が正しいとの証明をも果たしたことになると言われている。

 日蓮大聖人の活動以降、法華経は天台宗としてではなく日蓮宗(大聖人入滅以降、直弟子の日興上人の流れは富士門流・日蓮正宗)として現在に至っている。
 大聖人の法華経は三大秘法が根本となっており、本尊はインド応誕の釈尊ではなく本門の本尊(人法一箇)としている点が大きな変革となっている。

 なお最後に、日蓮大聖人が末法相応の文底法華経をもとに立宗し布教を始めた13世紀は、奇しくも仏教発祥の地であるインドにおいて仏教がほぼ滅亡した時期であり、仏教東漸の様相が厳しく歴史の上に現れていることを述べて本抄の締め括りとしたい。

[参照文献など]
平成新編 日蓮大聖人御書」(日蓮正宗総本山大石寺)1994年
  
諸宗問答抄(p36)、安国論御勘由来(p368)法門申さるべき様の事(431)、撰時抄(p850)、
  報恩抄(p1010)
、下山御消息(p1139)、本尊問答抄(p1274)、曽谷殿御返事(p1383)、曽谷殿御返事(p1383)、他
「日蓮大聖人御書辞苑 日本篇」山峰淳著(日蓮正宗仏書刊行会)1999年
「法華講員の教学基礎辞典」(暁鐘編集室)2014年
「教学歴史用語解説集」榎木境道編(和党編集室)2010年
「最澄 [天台宗]」百瀬明治著(淡交社)2014年
「比叡のあけぼの 最澄」木内堯央著(日本教文社)1980年
「最澄と天台仏教」(読売新聞社)1987年
「Representative Men of Japan」内村鑑三著(警醒社書店)1908年
「最澄」他 Wikipedia以下項目を参照。
 仏教公伝、日本の仏教、聖徳太子、推古天皇、大化の改新、崇峻天皇、慧思、三経義疏、
 南都六宗、中国十三宗、延暦寺、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇、神護寺、智顗、長岡京、
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