#086 内外相対の時代

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内外相対の時代


 世界中に無数に存在する宗教は全てについて、それぞれの本尊(信仰の核となる存在であり祈りの対象)と教義(本尊とその信仰を正当化する理論・説明)がある。本尊と教義のいずれかが欠けてもそれは宗教とは言えない。
 もしそうであるならば、本尊と教義を比較検討することによって、宗教の浅深と高低、更には正邪を位置付けることができることになる。

 宗教は全て根源は同じであり良否の区別は無い、いずれの宗教であろうと自分に合った好みの宗教であればそれで十分に満足できる、という考え方もあるが、これ自体がひとつの宗教観であり、異なった本尊と教義を全て認める宗教とみなすことができよう。
 また宗教の必要性を認めず無宗教を標榜する人は、人の本質が宗教的であること、そして人をホモ・プレ(祈ることができる人)と定義できることを知らないことになる。
 祈りは強い願望と希望の心の働きであり、生まれてから一度も祈ったことはないという人がいるならばその人は無宗教の人であると言えようが、非常に特殊な人と言える。もし普通の人のように心をもっておりその心の自然な働きとして祈ったことがあるのであれば、その祈りは何に対して祈ったのか、そして祈ったことに対して自己矛盾を感じなかったのか、を考えてみるのも自分の宗教観を見直す一助となるのではないかと思う。
 冒頭で述べた宗教の浅深・高低・正邪の比較は、原理的にはどの宗教も同じと考えている人や無宗教を標榜する人の宗教観をも含めて対象を拡大した宗教の比較が可能となる。

 宗教比較の有力な方法のひとつが「五重相対(ごじゅうのそうたい)」であり、13世紀後半に日蓮大聖人が開目抄という論文の中で提示されている。五重相対による宗教比較は全宗教に対して有効であり、全体で五段階の比較により最終的には法華経本門文底下種の仏法が最高の宗教であることが導きだされている。

 この五重相対の第一段階が「内外相対(ないげそうたい)」である。
 これは仏教とそれ以外の宗教との比較を行う。当時の時代状況から仏教以外の宗教とは具体的には儒教、道教、バラモン教(ヒンドゥー教の源流)、神道などを想定しているが、原理的には現代のキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教なども含めて拡大して適用することが可能である。
 この内外相対の宗教比較の基準は、三世(過去・現在・未来)にわたっての因果(原因と結果)が明らかにされているかどうか、にある。
 たとえば儒教、これは宗教と道徳が融合したような形態であるが、は現在の姿しか対象としておらず、仏教に比較すると程度の低い宗教である、と判別される。仏教では、現在の結果が過去の原因に基づくものであり現在の原因が未来の結果を導くとの三世を通じての因果関係を重視している。
 三世(過去・現在・未来)は、現在を基軸にして短時間の前後だけではなく、現世の一生における時間軸でもあり、更には現世だけではなく過去世と未来世を含めた現世代を超えた超時間軸をも対象にされる。
 哲学的な表現を借りれば、仏教は三世を貫く因縁因果の道理(原因と結果の普遍性と永続性)を提示しており、自性・他性・共性・無因性によって因果関係を説明もしくは否定しようとする全ての他宗教が、この内外相対によって一括排除される。

 さて、内外相対の概要説明を終えたことよりようやく本題に入るが、現在世界宗教といわれるキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、そして無宗教、を内外相対によって宗教の高低を判別すると、仏教以外は全て仏教より劣った低レベルの宗教となる。

 キリスト教は保守的な原理主義派から科学的キリスト教と称する新理論派までを包含した多様な教義に分化した宗教集団であるが、信者数としては最大の世界宗教となっている。
 このキリスト教信徒と無神論者のほとんどが疑問を思うことなく持っている宗教観が現代人の最大の文化的障壁になっていると私は思っている。
 誇張した言い方が許されるのであれば、これらの人々は「宗教」とはキリスト教的なものである、と信じていることが人類にとって最も不幸なことである、と断言したい。
 キリスト教が広まっている地域は2000年の伝統を基盤にしたキリスト教文化が隅々まで染み込んだ社会に生まれ、キリスト教を信ずるかいなかに関係なく、宗教とはキリスト教であり、唯一絶対神である神(GOD)が全てを創造し人間に関わる全てのことを決定していく、という宗教観を植え付けられて人生を終えていく社会になっている。これらの人々にとってはイスラム教やユダヤ教はもちろんのことそれ以外の宗教についてもこのような宗教観の延長でしか宗教を捉えることができない。
 したがってかなり高度の教育を受けた人であっても、仏教は宗教ではなく道徳である、という捉え方しかできない人もいる。また、旧約聖書(創世記)にある神は7日間で世界を創った(天地創造)ことを信じて、未だに生物の進化論を否定する人たちも数千万人以上いるのが現状である。全ての事象には自分を含めての因果があるということを日常の思考の外に置いてしまっており、自分にとって不幸なできごとや悪果を全て他人や社会のせいにしてしまう思考や逃げの感情に全く疑問を感じない風潮の社会を作ってしまっている。
 とどのつまりは、キリスト教会が「奇跡」と認定すればそれに巡り合ったことを人生最大の喜びとしてしまう。「奇跡」とは、自然を超越した神が行なったとして結果の事象を理屈付けることであり、合理的な因果関係を無視することによって「奇跡」となったにもかかわらずである。
 世界にとって更に不幸なことは、このようなキリスト教文化の中で育ったリーダー達が世界を動かしていることにある。どんなに科学や技術が発達しても力の論理や欲望の経済原理によって世界が動き、いつまでたっても戦争を繰り返すしかなく幸不幸の格差の解消にも向かわない。リーダー達がどのような宗教的背景によって物事の価値判断をしているのか、これが最も核心に触れる人類史的視点であろう。

 今の人類にはなにか叡智が欠けている、と言わざるをえないのが、世界の現状と思える。
 私は、この六道輪廻の現実世界を変えることができる有力な価値基準が「内外相対」であると信じて疑わない。未来にわたって人類が存続しより良い形で発展する鍵は、「内外相対」によって世界宗教の進化的淘汰が進むことである、と思っている。

[参考文献など]
 「日蓮正宗要義 改訂版」(日蓮正宗宗務院)1999年
 KOzのエッセイ#030「ヒトの定義」
 KOzのエッセイ#041「仏法とは」
 KOzのエッセイ#053「インド仏教の興亡」
 KOzのエッセイ#054「西洋哲学の変遷」

 KOzのエッセイ#065「宗教と哲学の区分」
 KOzのエッセイ#080「日本仏教史における法華経」