#072 カッパ伝説

072yy_ニホンカワウソ切手
カッパ伝説


 北は北海道から南は九州・沖縄に至るまで日本各地にはカッパに関わる様々な話が言い伝えられている。
 そのカッパの形態から、東日本におけるカッパ(河童系)と西日本におけるカッパ(猿猴系)に大別されるともいわれている。

 古来、カッパに出会った者がカッパの姿や行動を他人に伝える段階で、誇張や想像も混じり合わせての話が積み重なり、河童系の場合であれば、頭にお皿、背中に甲羅、突き出した口先、手に水かき、長い爪、体は緑色、などのいわゆる河童の全体像が大勢として定まっていったと思われる。
 この全体像を基調として妖怪画家や浮世絵師が河童の図を描き、更にその河童像が大衆の中に固定化していった。ここまでくるとカッパの実像と人々の思い描くカッパ像とは、ライオンと獅子舞の獅子ほどの違いになってしまうのは当然といえば当然と言えよう。
 こうなってくると困った問題が生じてくる。カッパとは何なのか? 絵に描かれている河童と同じ姿の動物なり生物は現存しておらず、日本のどこを探してもそのようなものは見当たらない。河童は架空の動物なのか? 多くの人が目撃した河童とは幻覚であったのか? それとも?。

 この答えを出す前に、アイヌ人と縄文人の関係を明らかにしておかねばならない。
 縄文人は縄文時代の日本人で北海道から琉球列島までの日本全域に居住していた縄文文化を持った人々であり、縄文時代とは1万6千年前頃から大陸から弥生人の源流が日本に移住してくる3千年前頃までをいう。しかし北海道ではこの縄文時代は本州特に西日本などと比較して長く続き3世紀頃まで続いていた。更に縄文時代の後に6世紀頃までは稲作を行わない続縄文文化、14世紀までは本州の影響を受けた擦文文化と続いており本州とは異なる文化圏を形成していた。
 14世紀まで続いていた擦文文化は以降アイヌ文化と呼ばれる時代に引き継がれ江戸時代末まで続いた。
 日本全体で縄文人から大陸からの新しい血が移入され弥生人が形成され日本人の民族的な原型が整っていったが、他方、北海道を中心に北は樺太・千島、南は東方地方の縄文人は北からの血を移入しながら1000年近くかけてアイヌ文化を形成するアイヌ(ウタリ)と呼ばれる集団に変化していった。
 この間、これらの人々が話すアイヌ語は1400年ほど前に、北海道方言が樺太方言と分裂し、更には600年ほど前には北海道の中でも幌別方言と沙流方言が分裂しており、地域ごとにアイヌ語の方言が分裂化していった。

 カッパの名前の由来として、一説には「川(かわ)」と「童(わらは)」の変化形「わっぱ」が複合して「かわわっぱ」→「かっぱ」に変化したとされる。しかしながらこれはカッパを漢字当てして河童とし、これを逆算して由来とするという本末転倒の説明であると思える。

 アイヌ伝説に、カワウソが自ら歌った謠として、
「カッパ レウレウ カッパ」(Kappa reureu kappa)
が伝えられている。
 この謠はアイヌ語には標準語が存在しないため方言で歌われている。
 アイヌ人は(方言として)河川に生息していたカワウソを「カッパ」と呼んでいた。
 この呼び名がアイヌ人(アイヌ語を話す人)から和人(日本語を話す人)に伝わっていった、と私は考えている。
 動植物や自然に対しての呼び名はアイヌ語は実に豊富でありその繊細な名前は生活の中で生き生きと溶け込んでいたと思われるが、「カッパ」もそのアイヌ文化のひとつの名残として現在に続いている。

 カッパの本家本元であるカワウソ(ニホンカワウソ)は2012年に絶滅種に指定されている。それ以降も目撃情報が寄せられているが現存しているという確たる証拠はない。

 私は、カワウソが未だ日本のどこか(北海道か四国)で生存しており、「カッパが見つかった」とのニュースが一日も早く聞けるのを心待ちにしているひとりである。

[参照文献]
 KOzのエッセイ#036「日本人の源流」
http://ja.wikipedia.org/wiki/河童
http://ja.wikipedia.org/wiki/アイヌ
http://ja.wikipedia.org/wiki/アイヌの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/アイヌ語方言
http://ja.wikipedia.org/wiki/アイヌ神謡集
http://ja.wikipedia.org/wiki/ニホンカワウソ
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku265.htm「簡易分裂年代推定グラフ」
https://www.youtube.com/watch?v=OfGvbSsmMUI「カワウソの泳ぐ映像(青森県)」